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『社会を越える社会学』第8章

第8章 社会学

庭師と猟場番人
本書の議論は以下の3つに大別
①「人の移動」の複合的な状況→メタファーと社会学の諸概念の変容をもたらす→再考の必要あり。
②ハイブリッドな概念としての移動は、さまざまなスケイプに沿って流動。ネットワークは「物理的」実体と「人間的」実体から構成されており、両者は複雑で可動的な結合から生じる。
③移動するハイブリッドは、社会学という専門分野の破綻をもたらす含意あり。
猟場番人国家:全体的にまとめず、細かいことには無関心。狩りの日に猟師のための条件を調整するのみ。
造園国家:パタンや秩序を重視し、成長を目指す理性的な近代社会(ex.東欧の社会主義諸国は精緻な造園に立脚した社会)
新しいグローバルな秩序は猟場番人国家への回帰を伴う。ポスト造園時代。
→市民社会、国家、自然、グローバルに対して、猟場管理が含意しているものをめぐって編成されている。
→国内外を移動する群衆を規制するとき、国家は庭園師よりも猟場番人の役割。

移動する市民社会
自動車での移動:瞬間的時間と新しい種類の空間
移動の中に住まう/「自動車移動からなる市民社会」「自動車運転手からなる市民社会」
→自らの移動性によって公共圏に参画する/運転しない、所有しない人は西洋社会に参画できない。
→個人の楽しみとしての運転/国家は許認可とインフラ整備を行い、いつどこへ行くかは規制しない
自動車の中に住まう/第二のわが家/車中の社会性
著しいフレキシビリティを人びとに強制→公的な時刻表(造園的時刻表)が断片的な個人的時刻表化
自動車での移動からなる市民社会の三つの様相
①目立たない自動車運転手というハイブリッド(競争的/注意深い)
②風景の切断、自動車愛と道路システムへの反抗、抗議活動のハイテク化多様化
③自動車専用環境の非場所化(純粋な移動の場)、公道の変容
→国境を瞬時に通過する貨幣や環境リスク、税収や情報/ナショナルな資本家階級の分断化と有力専門職層の成長/脱国民化と知識の脱領土化→単一で安定的かつ包括的なナショナル・アイデンティティの崩壊

移動を調整する
移動に伴う有害な結果を国民国家や超国民的国家が改善できるのかどうか検討
「主権の君臨は領土化・領有化できるもののみに対して可能」(ドゥールーズ&ガタリ)
→多用な新しい移動性によって、現代国家は世界を庭園ではなく、猟場番人としての役割しか果たせない。
「国家の外部にあるもの」→「巨大な世界機械」と「新・原始部族社会」の「絶えざる相互作用の場」や抵抗や逃亡
領土と国家に基づく社会諸関係の変容:統制の社会、数と脱領土化に基づく社会諸関係へと向かう
→デジタル化によってのみ捕捉される「可動的な占拠者」は、国家権力は統制できない。
反論:真に国際的な企業は少ない?投資活動が地球全域に等しく広がっているわけではないetc.
さらに、国家はフローの産婆役を果たすことや、国際条約等の行為主体としての国家の存在は重要・・・など。
but,多国間投資協定「単一のグローバル経済の規約」という位置づけ→超市民という新たな階級の誕生。
国家の役割は「社会的調整」にとどまる?/コンピュータを基にした新しい形態での情報収集、検索、提供。
ex.実地調査や世論調査の増加、英国の「再調整」/調整国家EUは各国の政策、監視、調整に関与。 
→EU内を移住する移民労働者とその家族の社会的保護/環境保護の進展/「国境なき諸問題」の解決
国家は将来的に、EU同様、支出を控えるようになり、データベースに基づきながら民間や市民活動によって供給される活動の調整を行う観察と監視による社会的調整に取り組む。

移動する自然
ただ一つの壊れやすい自然?/自然に対峙する特別な存在としての人間?
①複数の自然②環境としての特殊な自然(社会と自然の相互作用の結果としての「環境」)③社会的文化的構築物としての自然④生産される自然・・・自然の定式化は困難?
「グローバルな環境変化」:高度かつ新しいタイプの科学が深刻で切迫した環境問題への認識を促した。
→一方で、非-人間である自然が有す権利?
→ギブソン(米の知覚心理学者):環境のアフォーダンス(行動の制約/知覚と運動の一元化/「見させられている」「聞かされている」。物体の持つ属性(形、色、材質、etc.)が、物体自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、とする考え。)
「自然は市民なのか?」という問い→自然および再構成されたシチズンシップの感覚
①視覚以外の多様な感覚と自然との関連
②人間にとっての「良き自然」
③人間の営みに制限を課す自然→「複雑性の理論」へ

複雑な移動性
グローバルは回帰的に自己生産していると見なせるのか?
→システムの反復的性格?「構造」の「秩序化」と再生産/行為主体とシステムの変動
ギデンズ:「構造の二重性 」←批判;複雑性はどのように反映?媒介変数の著しい変化は?
多様な人間的/非-人間的な行為項(アクタン)
ex.)資本主義の「矛盾」の発展に関するマルクスの分析と予言←予見不可能性?
→情報のローカルな形態の決定的重要性=ローカルな知識に基づく闘争に秩序を確立し直す効果あり
→グローバルな帰結は非線形的で予測不可能=砂山の例
ローカルな知識に基づく決定が、グローバルな予測不可能で非線形的な結果をもたらす
ex.)インターネット、東欧崩壊、CO2排出、西洋的コンシューマーリズムの広がり、宗教的原理主義
ベイカー:中心縁(セントフェリー)→引き込まれてしまうような空間のアトラクタとして機能
→グローカル化;共棲的で不可逆で不安定な一連の関係において展開

結び
再構成された社会学→「社会<移動」
①ドガンとパール:「知の移動」→「創造的な境界性」を生み出すような移動によって知の革新がもたらされる
ex.)医療社会学、歴史社会学
②「解放への関心」を持つ社会運動に「寄生」してきた社会学。
but,メディア化する現代市民社会の性質は公共圏を変容させ、記号のグローバル化は公共圏をますます視覚的で感情的な公共の舞台へと変容させる。

・・・トランスナショナルな市民の連携や、民主化と非暴力に向けての世界的な変化、さらに国民国家が大衆の支持と正当性を維持することが著しく困難となっている事態が広く見られ、多様でグローバルな趨勢がより全般的に発展している・・・。

■本書のまとめ -「監訳者あとがき」より-■
 「社会の終焉」と「社会学の終焉」を論じた本書の主要な課題は、国民国家の限界と終焉を示し、グローバルなフローやスケイプに基づく新たな「移動する社会」を捉える視座としての「社会を越える社会学」の理論的基盤を提供することであった。そこで注目されるのは離接的競合的非整合的なシチズンシップであり、国民国家の役割はボーダレスなフローの「調整者」(猟場番人?)へと後退する。そうした変化を捉えるためにアーリは、時間-空間の理論を再検討する。「視覚のヘゲモニー」に貫かれた近代社会/国家(フーコー的監視社会観?)と、クロックタイム(瞬間的時間?)が支配する時間がパラレルに展開する状況が示された。だが、グローバル化が進み、「時間と空間の圧縮」が展開することで、瞬間的時間が世界を覆い、クロックタイムと視覚のヘゲモニーが規定してきた「いま・ここ」が揺らぎ始めるという。これが本書におけるアーリの理論的主軸である。5章「時間」6章「住まうこと」において示された、「瞬間的時間を生きる個人の生活」「移動する自動車に住まう人々」「環境と共に変化する氷河の時間」の存在は、第8章において僅かに示された構造化論への再審請求へとつながっている。そして移動する社会の「予見不可能性」の高まりは、構造化論では捉えきれないのではないかというアーリの社会学批判の主たる根拠となっている。

■論点■
①本書や、昨年度のゼミで扱ったアパデュライの『さまよえる近代』は、グローバル化のもたらす「不確定要素」や「流動性」を強く主張するものである。しかし、たとえばEU等の「共同体」以外では、パスポートの所持が原則とされており、我々の移動は当面国民国家への所属を前提としなければならない。またビザによって移動が強く制限されるケースもあり、地球全体が均質に「自由な移動」が可能となるわけではない。さらに、コンピュータ化による移動の管理は、自由と監視の並立を可能としており、その点では単純に「猟場番人」への回帰とは言えない。これまで何度も指摘されてきたように、アーリは「先進西欧諸国」的な様相を一般化しすぎる傾向があり、大きな経済格差や西欧とは異なる支配構造を持つアジア・アフリカ・南米諸国等の状況を、同様の「移動する社会」と位置づけていいのか疑問が残る。そのような点からは、「グローバル化」に伴い国民国家が後退するのではなく、移動の条件が整った国民国家と、移動を拒む国民国家が二極(多極)化する状況を想定すべではないか。その際、猟場というよりも、むしろ「サファリパーク(管理された野生?)」のような状況をイメージすることができるのではないだろうか。
②移動する人々の受け皿としての場所は、複雑な移動性の帰結としてどのような状況になるのか。人々は「移動の中に暮す」ことが全てではない。ローカルな場所同士が結ばれ、「ハイブリッドな人間/社会」の暮す「ハイブリッドな場所」がどのような状況となるのか、アーリの論考においては無視されているように感じた。もしハイブリッド(混血)な場所があるならば、それらはどのような変化を遂げるのであろうか。ハイブリッドな場所、身体、社会をそれぞれ見ていくと、どのような未来を「予言」することができるのだろうか。
③複雑性や移動性、流動性の高まりは21世紀的であるかもしれないが、草の根の市民運動やシチズンシップへの期待自体は、M.カステルをはじめとして、都市地理学や都市社会学において繰り返し言われてきたことではないだろうか。
④「結び」に示された「境界性」や「移動」の知とは、自分自身の研究や関心に照らし合わせるとどのようなものになるだろうか? たとえば私自身の研究では、ローカルな知としての「災害に関する知識」が、移動や境界性、グローバル化とどのように関わり合うのか?という視点が必要だということになる。たとえば、津波tsunamiの被害をふせぐために、「いなむらの火」という日本の民間伝承が海外での防災教育に導入されつつあることや、阪神・淡路大震災の経験を次世代の子どもたちや海外の人びとにどのように伝えるのか検討が重ねられながら「災害の記憶の取捨選択」が続けられていることなどが重要になるということだろうか。

2007-08-03 17:10 : 『社会を越える社会学』(07前期・院ゼミ) : コメント : 0 :
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