スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-------- --:-- : スポンサー広告 :

『さまよえる近代』 第3章 レジュメ

『さまよえる近代』
第3章 グローバルなエスノスケープ――トランスナショナルな人類学へ向けての覚書と疑問





A. Appadurai, Modernity at Large
Chap.3 “Global Ethnoscape: Notes and Queries for a Transnational Anthropology”




◆ はじめに
ethnoscapeとは
「《エスノスケープ》とは、我々が生きている移ろいやすい世界を構成している諸個人のランドスケープを意味している。すなわち、旅行者、移民、難民、亡命者、ゲスト・ワーカーや他の移動する諸集団や諸個人が世界の本質的な特徴を構成しており、ネイションの政治(そしてネイション間の政治)に、前例のないほど影響を及ぼしているようにみえる。とはいえこのことは、親族関係や友人関係、仕事や余暇、または、子供の誕生や居住、世代をまたがる他の形態といった比較的安定した共同体やネットワークが存在していないということではない。しかし、益々多くの人々や集団が移動せねばならないという現実や、あるいは移動への欲求をかきたてる夢想に関わりあいをもつようになるに伴って、こうした安定性という縦糸のあらゆる場所に人間の移動という横糸が差し込まれているのである。」(2章 70-71. 原文33-34.)

アパデュライが「エスノスケープ」という造語によって示唆しようとしているのは、
1. パースペクティブと表象のディレンマ
= 知覚や視野の伝統が、表象の過程やその所産に影響を与えてしまう
2. 集団的アイデンティティの社会的・領土的・文化的な再生産が変動しているという現実

「集団が移住し、新たな場所で再び集団化し、その歴史を再構築し、民族的プロジェクトを再編成するに伴い、民族誌における《エスノ》は、掴みどころがなく、ローカル化されえない特性を帯びるようになる・・・。集団はもはや厳格に領土化されることも、空間的に境界付けられることも、歴史的に無自覚であることも、文化的に同質であることもない限り、集団的アイデンティティの地景―すなわちエスノスケープ―は、もはや人類学に馴染みの対象ではなくなっているのである。」(96-97 原書.48)


→ * それでは、現代の人類学はこのような「エスノスケープ」をどのように研究すればよいのか?
「本章では、一連の覚書や疑問、事件や文学、映画に関する簡単なスケッチを通して、我々のディシプリンの慣習のいくつかを位置づけ直すとともに、今日の世界における諸々のエスノスケープは相互に大きな影響を与え合っていることを示したい。」(97 原文48)


◆ オルタナティヴな近代と民族誌的コスモポリタニズム
「現在の人類学にとっての中心的課題は、論理的あるいは年代的に、西洋的な経験の権威やその経験に由来するモデルを前提とすることなく、現代世界のコスモポリタンな文化形式を研究することである。」(97)

新しいコスモポリタニズム → 人間科学が真理としてきたことを覆し、困惑させている。
= これまで自明視されてきた「空間と安定性、文化的再生産のあいだの繋がり」を再考せねばならない。
→「脱領土化と呼ばれるものの文化的ダイナミクス」に焦点を合わせる必要性。
「脱領土化(・・・)は、集団の忠誠(とりわけ複雑なディアスポラたちの文脈において)や、彼らがおこなう通貨や他の形式の富や投機に関するトランスナショナルな操作、または国家の戦略に影響を与えている。ヒト、富、領土を結びつけていた力が弱まることにより、文化的再生産のための基盤が根本的な変容を被っている。」(98 原書49)

真にコスモポリタンな民族誌的実践は、今日のアメリカにおけるカルチュラル・スタディーズの地勢、ならびにその地勢のなかで人類学が占める地位を解釈することが求められている。


◆ グローバルな地勢におけるカルチュラル・スタディーズ
続く議論の舞台を設定するために、今日の人類学が置かれている立場、および論争のさなかにある人類学による「文化」研究の独占について概観

文化を扱ってきた学問領域
・社会科学(人類学・社会学)
・ポスト構造主義:“言語”を文化分析の方法あるいはモデルに = 「言語論的転回」
・文学研究:ここ数十年のあいだに人類学から「文化」をハイジャックしてきた
・カルチュラル・スタディーズ:「言葉」と「世界」のあいだの緊張関係が主たるテーマ
Word:あらゆる形態のテクスト化された表現
World:生産手段から生活背かの組織、グローバルな文化的再生産に至るまでのあらゆるもの   
 
 →「このように捉えられたカルチュラル・スタディーズは、コスモポリタン(グローバル?マクロ?トランスローカル?)な民族誌のための基礎となりえる。言葉と世界とのあいだの緊張関係を生産的な民族誌の戦略へと翻訳するために、多くの人々が居住している脱領土化した世界と、多くの人々が今日構想することができるようになっている可能な生活に関した新たな理解が必要とされている。」(原書52)
 =脱領土化の過程は、人々の生きられた、ローカルな経験のためにどのような想像上の資源を与えているのか?グローバル化され脱領土化された世界にあって人々の生きられた経験としてのローカリティがもつ特性とはいかなるものか?  
 → こうした問いに答えるためには、手始めとして、社会生活における想像力の役割に対する新鮮なアプローチが必要とされている。


◆ 想像力と民族誌
 Realism: 主義や理想に拘らず現実に即して事を処理する態度、あるいは空想や夢想に陥らず現実の厳しさを十分に知ってことに処する態度(参考、広辞苑)
 → ここでアパデュライが示唆したいのは、おそらく「リアル」なものと「想像的」なものと境界線が不鮮明になってきている現在の状況

「想像力が社会生活において並外れた新しい力を手に入れるにいたった」(105 原書53)
= マスメディアは、世界中のありふれた人々の想像力に介入し、彼らに数多くの可能なる生活を提供している。つまり、あらゆる形態のメディアによって提示される可能な生活というプリズムを通して、自らの生活眺めるようになってきている。また、メディアがもたらす想像力は、遠く離れて生活する人々のあいだの接触・交流のあり方に影響を与えている。

以上のことが民族誌に与える影響
「もはや民族誌家は、ローカルなものや個別的なものに“厚み”をもたらすことに満足しているだけではすまされないし、彼らがローカルなものに接近するときには、より大きなスケールの視座から捉えられた生活よりも、より基本的でより偶発的な、ゆえに、よりリアルな生活に接近していると前提することもできない。」(107 原書54)
 →脱領土化された世界において民族誌を実践していくときには、このように日常的な人々生活が、複雑であり、部分的には想像されたものであるという基本的事実から出発しなければならない。
 
「…問題は、社会生活における想像力の役割を、それほど頑固にローカル化を志向しないような新たな種類の民族誌のなかで、どのように記述していけるのか、ということである。無論、常に民族誌的記述の最も大きな強みであったローカルなものや個別的なもの、偶発的なものについて言うべきことはたくさんある。しかし、公的なものや大規模なものから何らかのインスピレーションを受けているに違いないリアリズムのなかで、あるいはそれらを通じて、生活が部分的であれ想像されているところでは、民族誌家は想像力と社会生活との関係性を表象するための新しい方法を見つけ出す必要がある」(108 原書55)

 「想像力と社会生活との関係性は、ますますグローバルで脱領土的なものになってきている。それゆえ、リアルなもしくは日常的な生活を表象するものたちは、社会生活の生きられた個別性について、認識論的な特権を有しているという主張を慎まなければならない。むしろ民族誌は、大規模の想像上の生活の可能性が、種別的な生活の軌跡に対して与えている力を明るみにだすような表象の実践として、自らを再定義しなければならないのである。」(109 原書55)

 アパデュライは3つの事例を通して自身の考えをスケッチ
①1988年のインド(ミクナーシク寺院)訪問 
 → 現在のインド人のエスノスケープが呈する様相を示唆
②コルタサルの魔術的リアリズム小説『ルーカスとかいうやつ』
 → 文学の民族誌:コルタサルの小説の読解を通じて、社会生活のなかにおける想像力の役割を略記
③M・ナイールのドキュメンタリー映画『インド・キャバレー』

 → 比較的小規模な範囲における脱領土化の事例。脱領土化された世界のなかでの想像力の作用があらわになっている状況を示唆するとともに、多くの生活がいまでは表象と分かちがたく結びついているため、民族誌のなかに映画や小説、旅行記といった複合的な表象形式を取り入れていかなければならないと主張。


◆ 結論―招待と奨励
 現在、世界に出現しつつあるコスモポリタニズム、すなわち文化的プローの複雑でトランスローカルな絡まり合いについて考察していく際の、「歴史」に関する問題
 歴史学:ある出発点から現在に及ぶまでの時間の流れを考える
系譜学:「現在」を出発点とし、それが如何なる過程を経て形成されてきたかを、遡って考える

「人類学は間違いなく、それが得意とする生きられた経験についての理解でもって、グローバルな文化プロセスに関するより広範で領域横断的な研究に貢献していくことができる。しかしそのために人類学は何よりもまずしなければならないのは、孤立無援の状態から抜け出し、「野蛮人の観察」というこれまでの人類学の主たる力の源泉の助けを受けることなく、カルチュラル・スタディーズへ貢献するという挑戦に対峙することである。」(126-127 原書 65)




《論点》
○現在の社会生活において想像力が果たしている役割の大きさについては理解できるが、あらゆる人々がメディアから得られる情報を同じように享受できるわけではないわけで、そうした情報の配分の不均等性についても目配りしていく必要があるのではないだろうか?
○同様のことは「移動性」についても言えるのでは?
○基本的に本章は、現在の人類学を再構成していくための指針が書かれているわけだが、他の学問分野を実践している我々としては、ここからどのような教訓を得られるだろうか?

2006-06-02 23:01 : 『さまよえる近代』(06前期・院ゼミ) : コメント : 2 :
コメントの投稿
非公開コメント

たとえば、政策立案のためには、ある時代のある社会における主要なライフコースを想定した上で、そのライフコースに沿った政策を検討していく。住宅政策や年金政策、介護保険や少子化対策、若者への施策などにも、そういった側面がある。

しかし、そういった想定も、アパデュライの言う「想像力」の範疇にあるとしたら、想像力に影響を与えるメディアの状況や、メディアに対する国家の規制をふまえ必要がある、という視点が大変興味深かった。
2006-06-13 23:11 : あいざわ URL : 編集
発表者の提起した論点の中でも、想像力における情報の配分の不均等性について議論が深まりました。人により、想像力の資源が異なるし、情報伝達のタイムラグもある、さらに情報の歪曲、コントロールも多く認められる。中国、インドからの留学生からの現地でのメディア(とくに中央政府や地方政府のコントロール)についての報告を交えながら、議論が進んだ。次回の第4章にもつながる話であるが、情報伝達のタイムラグは、重要な意味を帯びてくるのではないか?このタイムラグが、文化の差異を生み出し、ファッションを生み出し、時間が商品化されると考えられるのではないだろうか。
2006-06-13 22:15 : sawa URL : 編集
« next  ホーム  prev »

contents

過去の記事

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ検索

訪問者数

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。