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『空間の生産』Ⅱ-1

『空間の生産』Ⅱ

Ⅱ社会空間
1
「空間」と「生産」との用語と概念についてきわめて注意深い検討を必要としている。
○ヘーゲル主義
生産が決定的な役割を担っている。

○マルクスとエンゲルス
「生産」の概念は決してあいまいなものではない。

生産概念は二つの意味を持っている。
①広い意味
社会的存在としての人間がみずからの生活・歴史・意識・世界を生産するものとみなされる。
②限定された正確な意味
 問題にされるのはもっぱら生産物だけである。
 
 生産諸力とは何であるのか‐自然、労働、労働組織(分業)、労働用具、技術、知識

○マルクスとエンゲルス以降
 生産の概念が極めてあいまいに用いられるようになったために、それは事実上あらゆる定義を失ってしまった。


「作品‐生産物」の関係
作品は置き換えられないもの、得意なものを有する。
生産物は反復可能なものであり、反復的な身振りや行為から生じてくるものである。

「自然‐生産」の関係
自然は創造するが生産はしない。
自然は社会的人間に創造的・生産的活動のための資源を提供する。
ただし自然はもっぱら使用価値を提供するのであり、すべての使用価値に立ち返るか、あるいは自然財として役立つ。

自然の決定的な特徴‐創造
自然が創造するものは、つまり個別的な「存在」は、たんに生じてくるのであり、たんに現れてくるのである。
自然が創造する「存在」は作品である。

「人間」=社会的実践は、作品を創造し、ものを生産する。作品の創造にしても、ものの生産にしても、労働が必要とされるが、作品に関しては労働が果たす役割(および創造者が労働者として果たす役割)は二義的であるように思われる。これに対して生産物の製造においては、労働が支配的な役割を果たす。

 あらゆる生産的活動を定義するのは、不変で定常の諸要因であるよりもむしろ、時間的要因と空間的要因との絶えざる行き来である。
 生産的活動の形式は、目的の設定と不可分である→機能性及び運動する構造と不可分である
 
社会空間はまとまりのある一連の操作の結果である。それはたんなる物には還元されない。だが同時に、社会空間は、記号や表象や理念や夢がもつような虚構・非現実性・「観念性」をまったく持たない。
社会空間は生産諸力(および生産諸関係)と結びついて生産され、再生産される。

都市の空間は、有限な歴史的時間を経て社会的諸活動によって形づくられ、練り上げられ、占領されている。
例:ヴェニス
ヴェニスは16世紀以降の都市に統一的な規範や共通の言語活動が存在したことを立証している。
ヴェニスでは、空間の表象と表象の空間が、互いを強めあっている。

ヴェニスが誕生・発展した必要条件について
a.(自然や敵に対する)挑戦、目的(交易という)
b.壮大な構想、実践的企画、政治的階級の支配、海洋専制政治、商品経済の寡頭政治によって保証された連続性

 新しい社会諸形態が既存の空間のなかに「刻み」こまれただけではなかった。むしろ空間が新たに生産されたのであり、この生産された空間は農村的でも都市的でもなく、新しく生み出された両者の空間的関係の成果であった。

2
19世紀の中ごろ、いくつかの「先進」諸国で、新しい現実が人々の心を揺り動かし、人々の精神を刺激し始めた。
この現実は産業という名で呼ばれた。理論的思考にとってそれは政治経済学であった。

○言い回し
 ……言い回しをむやみに用いるのは、それらに含まれる社会的労働の量やそこにはらまれる生産的労働を偽り包み隠すためであるだけでなく、それらの物や生産物が立脚している搾取と支配の社会関係を偽り包み隠すためでもある。

○物はうそをつく
 物はいつわりの記号と意味作用の担い手である。

○自然はひとをだまそうとはしない
 自然はみずからをあるがままに、ときには無慈悲に、ときには寛大に、さしだす。

特殊な物であれ、「物」一般であれ、物の存在をたんに確証するだけであれば、これらの物がはらみかつ包み隠しているものを、つまり社会諸関係と社会諸関係の形式を無視することになる。

いかなる空間も社会諸関係を伴い、それを含み、それを包み隠している。空間は事物というよりもむしろ、事物(物および生産物)相互の間の一連の関係である。

事物は決して絶対的なものにはならない。それはみずからを、活動から、使用から、欲求から、「社会的存在」から、決して解放することができない。←空間にとってこのことは何を意味するのであろう‐核心的な問題

空間が自然性を帯びていればいるほど、空間が社会的生産諸関係に入り込むことは少なくなる。だが自然の特徴を多く備えた空間や自然の特徴を多く備えたものを含んだ空間は、しだいに衰えつつある。(ex.自然公園)

かつて支配的であった「自然的」という特徴がしだいに目立たなくなり、従属的な特徴になった⇔空間の社会的性格が、支配的になる

Q:空間は社会関係であるのか。
A:確かにそうである。ただしそれは所有関係に固有な社会関係であり、また生産諸力と結びついた社会関係である。

空間は利用され消費される生産物であるが、それはまた生産手段でもある。

3
社会空間の概念は、発展するにつれてますます広くなる。それは生産の概念に徐々に入り込み、生産の概念をむしばむことさえある。そしてそれは生産概念の内容の一部になり、おそらくは生産概念の本質的な部分になる。

存在するのは、ひとつの社会空間ではなく、複数の社会空間である。

世界的規模の空間は地域的な空間を廃棄しない‐それは不均等発展の法則がもたらす帰結ではなく、この法則そのものである。

諸種の社会空間の絡み合い‐一つの法則

社会空間は、たがいに浸透しあい、かつたがいに重なり合う。あるいはそのいずれかである。社会空間はものではない。
社会空間は、個別的な実態と固有性、相対的な固定点、大小の運動、フローと波動を含んでいる。

われわれの仮説は、いまや大幅に拡大され豊富化された。それは次のように定式化することができる。(P149)
①現在の状況は、実践的にも、理論的にも、19世紀なかばにうちたてられつつあった状況と一定の類似性を持っている。
②都市領域と日常生活の諸問題を含みこんだ空間の問題圏が、工業化の問題圏にとって代わる。だがかといって、空間の問題圏は工業化の一連の諸問題を捨て去ってしまわなかった。
③マルクスの時代には、経済科学が生産物を列挙したり記述したり計数化したりする作業のなかに埋没していた。
④かつては事物が空間において分析されたが、それと同じようにしていまや空間が分析されねばならない。そして空間に包み込まれている社会諸関係を暴きださなければならない。
⑤空間の問題圏が生まれてくるのは、明らかに生産諸力の成長からである。
 地理学的・歴史的な空間が全体として変形される。ただし空間の土台は放棄されない。空間の土台とは、空間の「原点」であり、空間の発生源あるいは連結点であり、社会空間の諸種のレベルが位置づけられる場である。
 思惟の反省能力は、生産された空間から、つまり生産の空間から、空間そのものの生産へと移っていく。
⑥空間の科学は、何年にもわたって様々な角度から探求されてきた。
 今必要なことは、「空間の科学」を夢想し追い求めることと、空間の生産を認識することとを、はっきりと区別することなのである。空間の生産の認識は、ひとりよがりの空間科学による空間の裁断や解釈や表象ではなく、空間の中で、また空間を通して、時間を再発見するであろう。
⑦空間の生産についてのこのような認識は、過去を回顧する視野と未来を展望する視野をともに備えている。

4
Q:なぜ空間の批判が必要であるのか。
A:①空間が純粋な透明性という神話的イメージに基づいても、自然の不透明という逆の神話に基づいても、適切に説明しえないからである。
  ②意味表現の下で、意味表現の欠如の下で、意味表現の過剰の下で、空間が自己にふくみこまれているものを包み隠しているからである。
  ③空間がそれ自身は物でないにしても、物と同じようにうそをつくからである。
ex.家屋、街路

空間を「直接に経験された」ものとして批判的に分析することは、文学、解読と著述形式、絵画、音楽といった個々の活動の批判的な分析よりも重大な問題を提起する。

「生きられる経験」にとっての空間とは、生命有機体にとっての形式それ自身と同じものである‐生命有機体の形式はまた機能や構造と密接に結びついている‐
○時間と空間
自然においては、時間は空間の内部で、空間のまさしく中心で、把握される。

近代の到来とともに、時間は社会空間から消えうせてしまった。時間はもっぱら時計という測定装置に記録される。時計もまた、時間そのものと同じくらい孤立させられ、機能的に専門化される。

生きられる時間は、その形式を失い、社会的関心を失う。(唯一の例外‐労働に費やされる時間)

近代世界の基本的特徴のひとつ‐時間をあからさまに除去すること

○空間は奇妙である
空間は均質的で、合理化され、それ自体で制約を受けている。だが同時にすっかり混乱させられている。
 (この)空間は視覚化の論理を前提とし、視覚化の論理をふくみこんでいる。(P162)

二重の論理(戦略)‐換喩化の論理、隠喩化の論理

仕切られた空間は、必然的にあるものをふくみこみ、他のものを排除する。
ex.ファサードはいくつかの行為を見られても良いものとして可視的なものの領域に受け入れる。それと同時にファサードはそれ以外の多くの行為をみだらなものとして退ける。

5
我々が関心を抱く問題圏とマルクスの時代に存在した問題圏との間に類似性がある→マルクスの『資本論』の構想にしたがって空間をとりあつかう

労働の本質的な領域とは、実態でも「現実」でもなく、形式である。
純粋な形式‐交換
この「純粋」な形式は、二極構造(使用価値‐交換価値)と機能を持っている。

○自然空間と社会空間
自然空間はたがいに重なり合い、分散する。
社会空間はある一点を軸にしてその点に集結する。社会空間とは蓄積の能力である。

○『資本論』の構想に対する反論
①マルクスが定式化したのは『資本論』だけではない。『経済学批判要綱』には、もうひとつ別のもっと実り豊かな構想がある。→差異
②この一世紀来、いくつかの変化と新しい展開が見られた。
③この一世紀来に新しい展開が見られるのは、「社会科学」あるいは「人間科学」と呼ばれる多様な科学の出現である。
 これらの科学が不均等に発展したえず移り変わっているにしても、それらの科学は依然として存在している。これに対してマルクスの時代には、これらの科学は存在しなかったか、あるいは潜在的に、萌芽状態で存在しただけであった。

空間の裁断と解釈を理解し把握するためには、「空間の科学」の概念や空間領域を全体化する概念に立脚するのではなく、むしろ生産的活動から出発しなければならない。

もしも認識が新しい政治経済学批判を再開するならば、この批判は次のことを明らかにするであろう。→
空間の政治経済学は、空間が資本主義を最終的に確立するための世界的な媒体としてたちあらわれる過程に見合っているのである。
この視点に立つためには、次の三者をはっきりと区別しなければならない。
①空間の内部における思惟と言説
②空間に関する思惟と言説
③空間の概念を練り上げるのにふさわしい思惟
この三者を区別するためには、用いられる素材と用いられる物質的装置を注意深く批判的に検討しなければならない。

素材は欠かすことのできないものであり、耐久性がある。
物質的装置はたちまち使いつくされる。→頻繁にとりかえられなければならない

政治的イデオロギーは何よりもまず空間に関心を抱く。それは戦略の形式で空間に介入するからである。政治的イデオロギーは空間の介入において戦略上の有効性を持っている。政治的イデオロギーはさらに新しい戦略を展開しつつある。つまりいまや世界的規模の戦略が地球規模の空間を自己自身の空間として生み出そうとしており、この空間を絶対者としてたちあげようとしている。

疑問点または論点
1.時間が可視化されるのは考えられるが、時間が孤立させられたという根拠または事例はあるのか。
2.資本主義社会に入って、生産諸力の発展とともに、空間が裁断され、断片化されたとルフェーブルは主張している。したがってこの社会は危機を抱えている。それをなくすために空間の再生産が必要という。それはたんなる断片化された空間の組み立てではなく、生産的活動から出発しなければならない。空間は客体である同時に主体でもある。答えを探るためにルフェーブルは先資本主義社会に目を向けていた。ルフェーブルが求めている答えは何であろう。生産活動、日常生活、娯楽等のあらゆる活動が空間的に裁断されることがなく、完結できるような社会の営みはそれであるかと考えている。
しかし、それは答えであるのか。そうであれば実現可能であるのか。また、答えでなければ、答えはどこにあるのか。果たして答えはあるのか。これらについて議論の余地があると思う。
まず、先資本主義社会を見てみよう。今日の資本主義社会と比べることによって、先資本主義社会はまるで空間的に裁断されることがない(あるいは少ない)かのように見せられていると思われる。また、その時の人々の生活形態は一種の調和されたような形でわれわれの前に現れた。もちろん、そこに全く問題がないとルフェーブルは言っていない。しかし、ルフェーブルが語る先資本主義社会のイメージが良すぎるのではないかという疑問はある。つまり、我々が求めている答えは果たして先資本主義社会から見出すことができるのか。さもなければ、ルフェーブルが先資本主義社会を語る目的は何であろう。

2008-06-06 15:12 : 『空間の生産』(08院ゼミ) : コメント : 0 :
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