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『空間の生産』Ⅱ13-15

Ⅱ 社会空間 13~15

13
社会空間は方法論的にも、理論的にも、3つの概念と結びついている
形式・構造・機能 →社会空間は各分析に付されなければならない。
【「形式」について】
形式主義の特徴…還元を目的とする、イデオロギー的要因
建築や絵画など純粋システムが生み出され、美的な効果や「意味の効果」の検討は重視されない。
〔方法論的・理論的な視点にとって重要なこと〕
①3つのタームは、物質性の領域、物質性の領域を通して存在し、さらに他の二者なしには存在しえない。この領域性が三つのタームを結びつけると同時に区別をする。
*生きた「実体」についての三者の分析では残余の把握へと進む。
*生産された「物」の場合には、その構成関係が変化する。三つの間の区別が克服され、かき消され、三者が直接的なしかたで互いを含みこむようになる。
  →近代世界で、極限まで推し進められる。
   「物質性」が「透明性」に道を譲り、「解読可能性」を完成させつつある。
   形式は機能の記号となり、両者の関係は明白になり、容易に生産し再生産しうるものとなる。構造も同じ。
*社会の「現実」については、反対に形態と機能と構造の距離はむしろ広がっており、それらの関係は包み隠される。それらは、解読しえないもの(理解しえないもの)となり、「隠されたもの」が「解読しうるもの」より優位にたつ。この優位性は、ものの領域において「解読しうるもの」が支配的になるのを防ぐのを助けるためである。いわゆる「近代」社会においては、物の空間と制度の空間がはっきりと分離する。
②三つの間の相互関係がはるかに複雑なものになるのは、論理形式、同一性、相互性etcのような、きわめて抽象的な形式(記述への依存と内容と不可分という性質を持つ)を考察するときである。

ほとんど「純粋な」形式は内容から引き離すことができない。「形式-内容」の相互作用や両者の具体的関係は分析の対象となり、還元しえない要因が存在し続けるなかで、残余を取り扱う。(形式が消滅してしまう)純粋地点に近い形式と内容の間には媒介が存在する。形式の要因が網状組織の中にふくみこまれると、多様化し、反復性と差異性を取り入れる。(例:建築様式、音節分解など)

空間の植民と投資(占拠)は、常に識別可能で分析可能な諸形式にしたがっておこなわれ、その逆に集結と集中の空間的諸形式は幾何学の諸形式を媒介にして実現される(例:都市の循環形式や四角形形式)。これらの形式がもつ内容が形式を変容させる。
スペイン系ラテン・アメリカの植民都市の事例きわめて興味深い。

【都市の建設と空間の生産】
都市の建物は、領土の占拠様式を用意し決定する。領土は都市権力の行政的・政治的当局のもと再編される。行政命令によって、場所の開発が規定される。
→空間が厳格に階層化され、幾何学的な正確さを持った計画が進められ、それぞれの場所が機能的に割り振られる。つまり、均質な空間の上に、徹底した隔離が重ね合わされる。

このような植民都市は、人工品と呼ばれもするが、生産手段でもある。経済的、社会的構造を導入するための政治的手段としてこの上部構造が役に立つ。スペインの植民地の建築(バロック建築の主題)はファサードの装飾にあらわれているが、ここには、「ミクロ」レベルの建築計画と「マクロ」レベルの空間戦略との関係が存在している。

政治権力が社会空間を生産するということであり、つまり、経済的目的に奉仕する暴力が社会空間を生産する。このような社会空間は、合理化され、理論化された形式にもとづき生成されるが、この形式は道具として役立ち、現存の空間を侵犯することができる。

【碁盤目型の都市空間】
中央権力が強いる強制的行動という、共通の起源をもっていると一般化するのは難しい(例:1810年以降のニューヨークの空間変容)。ラテン・アメリカの地理学的空間は西ヨーロッパの富の蓄積に奉仕する強奪および略奪の過程と関係があり、アングロサクソンの北米では、形式的に均質な空間が資本の生産と蓄積だけに役立つように、同じ抽象的形式が相対立する機能と多様な構造を生み出す。機能と構造については、先行空間の破壊と均質性という目的では共通。

アジアの都市と農村空間についての仏教哲学者による説明。(空間、言語活動、表意文字の関係)
仏教哲学者:感じうることと理解しうることとの間(〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉)にはっきりとした区別がなく、映像と概念を切り離すことは困難。感覚的なものと知性的なものが一つの意味に解けこんでいる。

『田』…水田以上の意味のものを感じる。世界の秩序でもあり、空間を組織する原理でもある。…(省略)…ここで自然の秩序を構想し保持する権力と一体化する。

日本の『真行僧』…空間と時間の諸要因を秩序づける手続きというよりも基本原理であり、公共領域、私的領域を結びつけ、間を媒介する混合領域という空間集合を編成する。『真行僧』という言葉は三つの空間的・時間的・心的・社会的な組織化のレベルを包み込み、三つのレベルは相互の意味連関によって一つに結び付けられる。都市全体も同様

われわれは、空間の総合的な知覚をもっている。空間の秩序をその形式から、空間の生成をその現実存在から、抽象的なものを具体的なものから、自然を社会から、それぞれ切り離さない。

空間は空虚ではない。場と物のいかなる集合も、中心をもち、…そこは中立的でも、空虚でも<不在の場>ではなく、≪神≫、≪全能の知≫、≪権力≫によって占拠されている。だからといって、中心を囲むものの価値が下げるのではなく、人間的現実すべての側面がそれぞれに割り振られた場をもち、すべてが具体的な形でたがいに結びつきあう。単一の秩序がすべてを含みこむ。

【アジアの根底にある思考の枠組みについて】
空間について、GMP(公的な場[G]、私的な場[P]とそのあいだの場[M])、さらにはそれぞれの場のなかのgmp(入り口、中心点、非難場)を用いてp.236のように表すことができる。

東洋の哲学者:あなたがた(西洋)の通りや広場につけられた名前など、都市空間における<意味するもの>と<意味されるもの>には関係がありません。都市は合理的な空間を粉々に砕いてしまった。格子状、あるいは半格子状をなす複合的な空間のほうが、…実践的に優れていることについて、われわれのシステムがその真実性を語っている(=具体的論理、意味の論理を持っている)。わたしたちは、自分のシステムの解読以上のことを、自分のシステムを創造する。

親西洋主義者:東洋は、宗教の領域と政治の領域と社会の領域を互いに調和させる重大な結びつきを知っている(西洋は、記号と分析を利用することでこれを抹殺してしまった)。あなたの図式は反復の枠組みの中における差異を説明している。庭園は、…自然の領有を典型的に示している点では大変けっこうである。しかし、図式はあまりにも複雑(例:Gg)であるし、あなたがたの空間は≪権力≫の空間なのです。そこでは知と権力が結びつきかつ融合する。空間と時間を生産するのは政治権力であるべきだ(超ヘーゲル主義)という考えは西洋にとっては受け入れがたい。あなたの図式が支配の恐るべき手段となりうることを恐れる。
14
【構造的分析】
規模・比率・次元・レベルを考察したいという要求にこたえるものであり、方法論的にも、理論的にも、他の諸種の分析(形式的・機能的分析)の補完するものである。構造的分析が責任を負うのは、全体(総合レベル)の定義に対してであり、全体が論理つまり戦略を、そして象徴体系をはらむかどうかに対してである。構造的分析は特殊なカテゴリーを新たに取り入れる。

記念建造物の空間の生産(古代ギリシャ、古代ローマ、中世、近代)
物質的な関係が同じように特定された空間構造を生み出し、構造的分析が対象とするのは、特定の諸力とそれら諸力の間の物質的な関係である。

Qわれわれの分析概念は、建築空間の生産に関していまもなお日常的に用いられているいくつかの古典的な用語に照応しているか?
A.ウィ。ある点まではウィ。照応関係がわかれば、「古典的テクスト」を近代的表現に翻訳することが可能となる。しかし、あまりつきつめてしまうと、状況・素材・物質的装置が忘れ去られてしまう。「建築組成」にあるイデオロギーや「建築法」にある社会諸関係の関数や、技術自身の変化可能性などが忘れ去られてしまう。

空間とその生産の問題圏は、私的なものと公的なものとの関係にかかわっている。(p.241仮説について批判する見解)三重のアプローチは、社会空間を解読する方法として文句なしに支持できるわけではない。もっとも重要なことがこの解読「格子」からすり抜けてしまう。

【意味論と記号学に関連して】
意味論と記号学の諸カテゴリーは空間の現実の生産を認識することはできない。意味論と記号学のいくつかの基本的関係は、さまざまな仕方で空間に言及している。空間が意味作用を持つことは疑いのない事実である。<意味するもの>と<意味されるもの>の関係は、ずれや歪みなどの影響を受けやすい。(例:証券取引所)また、何かを意味することのない空間は存在し、そのうちの一つである意味作用を超えた空間はあらゆる解読を不可能にする。たとえば資本主義を推進する者たちが生産する空間は、諸種の記号を満載し、収益性という最初の意味作用を消し去るだけでなく、あらゆる意味を失わせる。

【空間の解読ついて】
空間の判読と解読は可能であり、当然のことである。空間についても解読コードが複数あることは疑いない。R・バルトによれば、テクストを解読する際に、人は誰でも5つのコードを持っており、まず認識のコード(「自我」の理解について)がある。また、意味論的で記号学的な研究が次第に多岐にわたるようになると、明示的意味(第一水準、文字どおり)と暗示的意味(第二水準)の二つのコードだけを提起した。

【コードと解読】
なぜ5つなのか?コードの選択はいかにして可能か?コードの間の移行はどのようにしておこなわれるのか?・・etc
ここで追求しようとすることは、二つの未開拓な領域が残されていることを指摘することである。一つは<解読しうるもの-可視的なもの>の手前にある領域(①)、もうひとつはそれを越えた領域(②)である。①は、身体の領域であり、空間が感じ取られ、生きられ、生産されるのは、身体にもとづいているからである。②は≪権力≫の領域である。≪権力≫はコードを持たないため、解読されない。コードを次々と自由にとり替え、あやつる。単一の論理に縛られることがなく、戦略だけをもち、その広がりは権力の財源に比例する。権力の<意味するもの>と<意味されるもの>が一致するのは、暴力の姿においてである。

「幻想」…p.245,16行以降。 空間論と経験論の関係。
空間の解読は可能である。われわれが表象の空間から空間の表象へと移行するための手がかりをあたえてくれる。空間の解読は、空間的実践と空間の理論における照応関係を、類推を、ある程度の統一を示してくれる。しかし、解読作業が始まるやいなや、その多様な解読可能性によって作業の限界があらわになる。
空間が素材になると、範列による対比が増加し、次第に複雑なものとなる(新しい対比の作用)。歴史的空間が到来すると、諸種の場が分岐し、しだいにはっきりとした形で互いに対比されるようになる。(例:都市の城塞)諸種の場がひとたび分岐すると、たがいに対立しあうこともあれば、補いあったり集結したりすることもあるため、諸種のトピーにもとづいて類別し、枠づけることができる(イゾトピー、ヘテロトピー、ユートピー)。だがそれ以上に重要なことは、これらの場が支配される空間と領有される空間という重要な対比によって眺められるようになったということである。

15
【支配と領有の区別について】
語る前に・・・通時性と共時性という歴史の二つの堆積物の間の関係について。
いかなる空間も消滅することや、痕跡を残さないことはない。隠喩化の作用と換喩化の作用によって、それぞれの時期やそれぞれの時代は、自己の制約をのり越えてみずからの前提条件を生み出す。そこでは重なり合った諸種の空間がやはり総和をなしている。ここで記述されるのは変態であり、転移であり、置換である。

【支配する空間と支配される空間について】
技術と実践によって媒介され変容させられた自然空間である。その支配は、歴史と歴史領域に深く根ざし、政治権力それ自身とともに始まる(例:自動車道路、軍事的建築物など)。しかし、近代的・工業的な狭い意味での「生産物」ではいまだない。支配する空間は、つねに支配者の構想を実現したものであり、空間を支配するために既存の空間に新しい形式(直線と方形の形式)をとりいれる。この空間概念が完全に意味を得るのは、領有という概念と対比されるときだけである。
マルクス:また領有と支配を区別しなかった。労働と技術は、物質的自然を支配することによって、(社会的)人間の欲求にあわせて物質的自然を領有する。

空間の批判的研究によってのみ、領有の概念を説き明かすことができる。領有とは、その空間が集団の欲求と能力にとって役立っているときに言うことができる。占有という意味での所有は、領有の必要条件であり、単なる付帯現象にすぎない。領有活動の最高の表現は芸術作品であり、領有された作品は芸術作品に似ている。領有された空間の事例は豊富である。しかし、いかなる関連において、いかにして、だれによって、誰のための領有であるかを確言することは必ずしも容易ではない。

もっとも恵まれた状況では、外部の空間(共同体の空間)が支配され、内部の空間(家族生活の空間)が領有される。空間的実践の典型例であり、具体的には芸術活動に近いものである。注意してほしいことは、領有をなしとげるのは不動の集団ではなく、領有の過程においては、時間が役割を演じており、領有は時間と生活のリズムなくしては理解できないということ。

支配された空間と領有された空間は原則として(少なくとも理念的には)結びついている。だが歴史は両者の分離の歴史であり、敵対の歴史でもある。そこでは支配が優位を占め、かつて存在した支配なき領有から支配が高められ、結果として支配が圧倒的な勝利を収めた。しかし、領有は消滅することはない。

【身体の領有権】
身体および性行為についても、空間と同様のことが言える。身体は技術と視覚化をふくむ圧倒的な権力によって支配され、断片化され、自我を放棄する(身体の領有権を奪われる)。今日のスポーツや体育は、本物の「身体文化」のパロディである。空間の再領有と結びつく身体の再領有は革命的構想において不可欠である。性と性行為に関してはさらに複雑である。性が真に領有されるためには生殖機能と性的快楽とが区別される必要があるが、この区別が微妙である。真の快楽空間とは、優れて領有された空間であるが、そのような空間はまだ存在しない。

【領有と流用】
領有は流用と混同されてはならない。空間が空虚になり、流用されたり再領有されるということがありうるが、流用は領有とは区別された実践である。空間の流用と再領有は、新しい空間の生産について多くの教訓をあたえてくれるので、重要な意味を持つ。資本主家的生産様式にとって、流用は創造よりも重要である。純粋に理論的な観点からすると、流用と生産とははっきりと切り離すことができない。流用はたんなる再領有であって、創造ではない。再領有は支配を停止させることができるが、一時的なものにすぎない。

◆論点◆
☆ルフェーブルはアジアの仏教哲学者の捉え方と西洋のとらえ方の違いを見て、空間の分析について何を言い表そうとしているのか、両者の融合か?全く別の考え方か?
☆社会空間の分析において形式、機能、構造の区別をどのようにとらえるということなのか?
☆表意文字に権力が含まれているのか?表音文字にはないのか?
☆領有に関する時間の役割、生活リズムの役割
☆空間の解読が権力に対するもの(支配される空間から領有する空間への移行?)になるととらえればよいのか?(前回、「解読できないものが権力」という話がでていた。コードを駆使して空間を解読するのが権力だいうメモがあったが、空間の解読が可能であるというルフェーブルの考えとどう関係させればよいのか。)

2008-06-27 15:32 : 『空間の生産』(08院ゼミ) : コメント : 0 :
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