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『さまよえる近代』 第1章 レジュメ

「さまよえる近代」
第一章 <いま>と<ここ>




グローバルな<いま>

巨大な社会的力というものはすべて、先駆者や先例、類似物、源泉を、過去に持つものであり、こういった現在から遠く隔たった多様な系譜こそが、歴史を計測する互いの時計を合わせようとする憧憬を挫折させてきた。
=過去と現在の間は断絶されている。→伝統と近代性の断絶として再生する。
⇒「メディア」と「移動」が深く関与=想像力の駆動を駆り立て、現在の世界を特徴付けているから。
「メディア」
電子メディアを通して、可能なる生活の台本(スクリプト)は、空想的な映画のプロットと重なる一方で、現実味のあるニュースといった単純明快な遠距離通信と結びつくこともできるため、電子メディアは、想像の自己や想像の世界を構築する新たな資源や規律を与えることができる。
→マスメディアに代表される伝統的メディアのさらに広範な領域を決定的に変容させている。

「移動」
フィラデリフィアの朝鮮人が韓国からの衛生中継でソウル五輪を視聴するといった、移動するイメージと脱領土化したオーディエンスの邂逅によって、ディスポアラ公共圏が創出される。
⇒この二つが結合すると、観察者とイメージが同時に循環しているため、不規則な事態が生まれる。ヒトとイメージは、揺るぎなき祖国や、ローカルまたはナショナルなメディア効果という防疫線の外側で幾度となく、予期せぬ邂逅を果たしている。

想像力の作動

人類学者は、集合表象は、個人的意識を超越し、社会倫理という力を背負いこんだ客観的な事実である、と見なすことを習い性としてきた。そこで、筆者は、およそ過去一世紀にまたがる技術的変化に支えられて、ある転換がここ数十年でもたらされ、そのなかで想像力が集合的、社会的事実になっていったのだと、と提起する。

かつてどの社会も、想像力によって社会生活が解体されており、日常の社会生活を超越し再構成するために、さまざまな神話体系を頼りにしてきた。

ポスト電子的世界において想像力が新たに重要な役割を果たしていることを提起する筆者の立場は3つの区別に依拠している。

①神話的記述/神話・儀礼
想像力は、芸術や神話、儀礼といった特殊な表現空間を抜け出し、現在では多くの社会で、ありふれた人々の日常な精神活動の一部となっている。
=生まれた場所を離れて生活し、労働する可能性をこれまでにないほどの数多くの人々が日常的に想像するといったように、相互にコンテクスト化しあう移動とメディアのなかに例証されている。
神話的記述の中に想像力を差し込むことで、これが新しい社会的投企への特権となり、ハビテュスという緩慢なる力は、大規模な集団に帰属するものたちにとって、激しいビートを刻み即興へと移行する。この点で、マスメディア化を通じて発現するイメージや台本、モデル、物語が、今日の移動をかつてのかつてのそれから分け隔てている。

②想像力/夢想(ファンタジー)
夢想の概念には、投企と行為から分かたれた思念という印象が付きまとい、私的な、場合によっては個人的な響きをもつ。想像力には、投企的な意識、つまり美学的かどうかであるかはともかく、何かの表出の前触れだという意識が伴う。また、夢想は自己目的的であることが多いため消散するものだが、想像力は、とりわけそれが集団的であるとき行為の資源となりうる。

③個人的な意味での想像力/集団的な意味での想像力
映画とヴィデオの集団的経験が生み出したカリスマ的人物への信仰者集団といった、マスメディア化された集団は、嗜好や快楽、政治をめぐるローカルの経験が相互に交差する場となって、トランスローカルな社会的行為が収斂する可能性を生み出している。

多くの社会にとって近代性はよそに存在するものであり、同じく、グローバルなものも、≪その社会に固有の≫現在において遭遇しなければならない時間的波動である。グローバル化はエリート同士の距離を縮小し、生産者と消費者との基本的関係を転換し、労働と家族生活との結びつきを断ち切り、一時的な場所とナショナルなものへの想像上の愛慕との境界線を不鮮明にした。近代性はいまや1950年代や60年代の新たに独立した国民-国家と偉大な指導者のプロパガンダ装置としての介在していた時期に比べ、実践的で経験的になる反面、教育的効果や規律性を失いつつある。しかし、現在も多くの国で見られる開発主義的美辞麗句は、映画やテレビといった表現形式にもたらすミクロな物語によって、多くの場合差し止められ、審問され、懐柔されている。
→こうした物語によって、近代性は土着的なグローバル化として書きかえられていく。
=いままでにない形で、愛慕や利害、大望を抱いた個人が、国民-国家をますます激しく横断していくため、政治とも深く結びついている。

人類学のまなざし
「グローバル文化が文化的同質化の物語とは異なっている」
人類学は専門的傾向として、文化的なものが多くの習慣的行動における主たる弁別的特性であると特権視している。
筆者は、≪文化≫という名詞を使うことに躊躇することがよくあるが、それに反し、その形容詞である≪文化的≫には強い愛着を覚える。
=文化という概念の最大の価値は、差異の概念にある。差異とは特定の事象がもつ実体的特性ではなく、あらゆる種類のカテゴリーの間に潜む類似点と対比点を浮き彫りにする有効な発見方法ともなる対比特性である。
→文化を効果的に捉えるためには、実体とみなすのではなく、現象の一次元、状況付けられ具象化された差異に照準する次元とみなすほうがよい。その次元性を強調することで、文化を巡る思考は、個人や集団の所有物ではなく、差異を語るために利用することのできる発見装置となる。

しかし、世界には多様な差異があり、そのなかで文化的といえるものはごくわずかである。そのため、私の考えではわれわれが文化的だとみなせる差異は、集団的アイデンティティの動員を表現する差異か、あるいはその基礎となる差異に限定されるべきである。
=文化を集団的アイデンティティの領域における差異として概念化していく。
=文化とは、差異を流用して集団的アイデンティティに関する多様な構想を引き出す言説に遍く浸透している次元の一つである。

文化を境界付けられないと、文化という言葉によって差異が多様な水準にわたり、多様な結合価をもち、社会的帰結の程度も多様であると論じ続けられることになる。
⇒私は、それに対し、≪文化≫という言葉は一定の境界をそなえた用語としてのみ使用されるべきだ、と提起する。差異の中でも、差異の境界を分節化するために動員されてきた部分に対してのみ、≪文化≫という語彙を使用すべきである。
←これは、民族性と文化を等置しているのではないか。これが言えるのは、この意味での≪文化≫が一定の属性の所有ばかりではなく、属性やその自然化が集団的アイデンティティにとって不可欠であるという意識まで強調することになるからである。
⇒差異の意識的かつ想像的な構築によって動員された差異の下位集合(民族性)を自然化するプロセスとしての文化。

世界中で、民族的多様性を包囲して固定的で閉鎖的な文化的カテゴリー群に転換し、多くの個人を強制的にそこへ帰属させようとする国家の活動に、多くの集団が直面している。そうした集団は、アイデンティティの基準に従い、意識的に自己動員をはかっている。文化主義とは、単純化してしまえば国民-国家の水準で動員されるアイデンティティの政治学に他ならない。一方で領土外の歴史や記憶と結びつき、比較的規模の大きいナショナルあるいはトランスナショナルな政治に資することを意識した文化的差異の動員でもある。

研究対象としての地域

文化的なものに対する人類学的な強調を支えているもの=地域研究
大戦間期の人類学に現れた文化領域という構想が、発展途上世界の戦略的に重要な地域に対する大きな視角として、地域研究と結びつくと、集団ならびにその生活様式が文化の差異によって印されたある独特な地図に心をひきつけられてしまい、地域研究の編成とともに、文化の差異がナショナルな文化的差異の地勢学へと横滑りしていくことにはほとんど疑いの余地はない。こうして、地理的分割、文化的差異、ナショナルな境界線が、同型的に扱われることが常となり、ナショナル=文化的な世界地図を通して世界の動向を歪曲化するという強力な傾向が発達を遂げた。

地域研究の伝統はおそらく、地域研究が創り出す独特の世界地図にあまりに安住し、地域研究ならではの専門的実践にあまりにも安穏とし、いまも昔もトランスナショナルなプロセスにあまりにも鈍感であったのかもしれない。
地域研究の有効性は、グローバル化それ自体が、深層では歴史的な不均等な≪ローカル化≫のプロセスでさえあることを想起させてくれる点にある。

ここでの地域研究であるインドは、グローバル化を遂げつつある世界においてローカリティがどのように発現するか、植民地化のプロセスが現代政治をどのように裏書きしているか、歴史と系譜がどのように屈折させているか、そしてグローバルな事象がローカルな形式を帯びるのはどのようにしてかといった問題を説明付けるための≪現場≫である。

愛国心なき後の社会科学

「国民-国家の歴史や、その現在の危機、そして国民-国家の展望をめぐるもの」
国民-国家は、重要な差異をはらんでいるにもかかわらず、それが意味を成すのは、ただある一つのシステムの部分してのみである。このシステムには<いま>と<ここ>を特徴づけている、ヒトとイメージが連結したディアスポラに対処するための装置が不十分にしか装備されていないようである。複雑な相互作用システムの構成単位としての国民-国家が、グローバル性と近代性との関係を長期にわたって調整していく可能性はもはやほとんんどない。→「さまよう」近代

しかし、国民-国家から成り立つシステムそれ自体が危機に陥っているという知見はいまだ十分に知られていない。国民を国家に結びつけるハイフンに私が拘泥するのは、国民-国家の時代そのものが終焉を迎えつつあるという展開中の議論の一環となるため。

①倫理的要素と分析的要素の区別
倫理面が前面に出ると、近代的な政府装置のほぼすべてが自己永続や拡張、暴力、堕落へと傾くのではないだろうか。
分析面が前面に出ると、国民-国家の国内で見られる関係、あるいは国民-国家間の関係を検討してみても、戦争地域の拡大や文化戦争、急激なインフレ、大量の移民、あるいは資本の暴走が数多くの国民-国家の主権を脅かしていることがみてとれる。
=国家主権は無傷に見える場合でも国家の正統性はしばしば揺らいでいる。

東欧を引き合いに出して、部族主義が深層であること、他民族のナショナリズムが規模を大きくした部族であること、さらに領土主権が依然として多くの大規模な民族集団にとっておおきな目的を示されることが、多いわけであるが、ヒトの移動、グローバルな商品化、基本的人権を多数派民族集団にさえも与えられない国家というものは、これらの要因によって構成される世界にあっては国民-国家が外国からの労働力や専門技術、軍隊、あるいは兵士への依存を高めるに従い、領土主権は正統化しがたいものとなっていく。反ナショナリズム運動にとって、領土主権はその大望を表すまことしやかな表現であるが、しかし、反ナショナリズム運動の根本原理や究極的関心であると誤認してはならない。
→そのためには次の2点認めなければならない。

①富める北半球諸国の政治システムそのものが、危機に瀕していること。
②世界の多くの地域で現れた新興ナショナリズムを支えている愛国心は、単なる領土的なものでも、あるいは領土を根源としているわけでもないこと。




論点;
・p42 「二つの視座」とは。
・ 観察者とイメージが同時に循環しているため、不規則な事態が生まれる。「不測の事態」とは具体的に一体どのようなものか。
・ 「夢想」とは具体的にどういうものか。
・ 神話体系、神話的記述とはどういうものか

2006-05-19 15:14 : 『さまよえる近代』(06前期・院ゼミ) : コメント : 0 :
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