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終章Ⅱ 《都市的なるもの》の救出 ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む(ベンヤミンについて)

終章Ⅱ 《都市的なるもの》の救出 ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む(ベンヤミンについて)

2 ヴァルター・ベンヤミンについて 
2.1 生まれと育ちについて
2.1.1 幼少期
2.1.2 ギムナジウムと寄宿学校時代
2.1.3 フライブルグ大学・ベルリン大学時代
2.1.4 青年運動との訣別
2.1.5 博士号取得後
2.1.6 アーシャ・ラツィスとの出会いと、共産主義への接近
2.1.7 亡命
2.2 ベンヤミンの「翻訳」について
2.2.1 ブーバー宛の書簡
2.2.2 「言語一般および人間の言語について」から
2.2.3 「翻訳者の使命」から




2 ヴァルター・ベンヤミンについて

名前:ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)
1892年生まれ、1940年没。
フランクフルト学派の一人に数えられ、美学とマルクス研究で知られる。

人となりを知る方法はただ一つしかない。
すなわち、その人を愛し、その人への希望を捨てる。この二つを同時に行うことだ。
―ヴァルター・ベンヤミン
http://quotes.dictionary.com/search/The_only_way_of_knowing_a_person_is_to_love_them_without_hope. より

2.1 生まれと育ちについて
―この章では、三島憲一『現代思想の冒険者たち 第09巻 ベンヤミン―破壊・収集・記憶』に準拠しながらベンヤミンの人生の流れを把握し、思想の輪郭となる所を把握する。ベンヤミンの来歴を幼少期、ギムナジウム・寄宿学校、大学、青年期と分けて見てゆきたい。
そこから考えるとベンヤミンは
1. 基本的に芸術家肌であり、その関心の対象は主に文章であり
2. 世間の事情や暗黙の了解に疎く、政治・社会から距離をとる事に矜持がありながら
3. 親しい人がそれに関わっているとなると、接近し
4. 女性関係に奔放な
5. 理想主義者で、神秘主義者である
6. ボヘミアン
といった人物だと考えることができる。

2.1.1 幼少期
ベンヤミンはかなり裕福な家に生まれた。父親は、当時のベルリンの中の資産家上位十人に入るほどだった
ひと口に「豊か」「成功」といっても、ベンヤミンの家は桁が違い、ベルリンでも十指に入る財産家だった。たとえば、活発な知性の持ち主で、彼の才能をいち早く見抜いた父方の叔母のフリーデリケは銀行家と結婚したが、8人の子供たちはそれぞれ洗礼の祝いに基本財産として、父から十万ライヒスマルクを贈与された。ちなみに1890年当時のドイツ労働者の平均年収は650ライヒスマルク(熟練労働者だと1300以上)。プロイセンの大臣の年俸は、36000、県知事14000ライヒスマルク、1889年のハンブルグ市の15万6千世帯の中で、年収3千マルク以上の世帯は9パーセント。少し時代が下るが、1912年ベルリンの高級ホテル「アドロン」の一泊料金は6マルクからという時代である。その中で赤ん坊が10万マルク贈与されるというのだから、想像を絶する。(『現代思想の冒険者たち』から26-27p)
ただ、その裕福さ・安定感の中に不安を抱いていたという。
「この住居から漂ってきた、ブルジョワ的安定感というはるか昔の感慨を、私はどんな言葉で描いたらいいというのだろう」という文章の出てくる祖母の家の描写(「ベルリンの幼年時代」*1中の「ブルーメスホーフ十二番地」)も、階段室を上りながら、突然襲う脱力感に触れている。祖母の部屋は昼間は静かに落ち着いているが、夜は「悪魔の舞台」となる。さらに住居の外、つまり建物の玄関を開けてから祖母の家にたどり着くまでの立派な階段室も悪魔が潜んでいる。「階段室は、足を踏み入れると悪魔の住みかとなった。悪魔の仕業で、私の手足は重くなり、力が抜けてしまい、祖母の家の必死に目指す入り口まで後ほんの数歩だというのに、私を麻痺させてしまうのだ。こうした数々の悪夢は、私がこの家で得られたやすらぎの代償だった」。安定感そのものが悪魔だったとでも言うようではないか。(『現代思想の冒険者たち』から35p)

2.1.2 ギムナジウムと寄宿学校時代
十歳になったベンヤミンはギムナジウムに入学。ギムナジウムから大学入学資格を得るのは人口のごく少数、現実には親の階層と財産が決定的ファクターだった。閉鎖的なギムナジウムにおいて、権威主義的リベラリズム・進歩主義に対する反感をもつようになる。
あの事件から(注:「悲劇の誕生」が出版されたことを指す)20数年後、狂気のニーチェがこの世を去った同じ1900年、大学の階段を登りつめたこの男(注:古典文献学の巨匠ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ)の記念公演の始まりと終わりは、当然ゲーテの『ファウスト』の引用。そして、ゲーテに畏敬の念を払うリベラルな教養主義の巨匠にとって「十九世紀最大の事件として人類の記憶に残るのは」、なんのことはない「ドイツが列強の一員になったこと」である。偉大な学者といっても、いやそうだからこそか、その辺にいるただのナショナリストにすぎないのだ。マルクーゼの報告を読んでみよう。
その際ヴィラモーヴィッツは、ナショナリスティックな慢心を戒め、現在の我々がフランス革命にいかに多くを負っているかを強調した。[ナポレオン戦争の]屈辱の日々を忘れない誇り高きプロイセン人の彼だが、フランスを愛したゲーテの次の言葉を引いた。<私の教養の非常に多くを作ってくれた国民をどうしてにくむことができようか>と。また彼はロシアもほめたが、それはもう胡散臭い支配者意識を宿していた。<ロシアは文化を殺戮する愚劣な集団[モンゴル人のこと]がしばしば西方へ侵入する出発点となったステップ地帯を越えて遥か東方へと、アーリア人の文化を運び続けた>。次に彼はアメリカへテーマを移し、ほめたたえた。・・・・・社会主義の理念は子供と乞食の憧れでしかないとしてこの大先生は一蹴した。彼は<自由の運動>を要請し、ドイツ民族は[1848年3月革命後の]フランクフルト国民議会のあのパウロ教会ほどに自己の存在にふさわしい代表者をもったことはないと述べた(マルクーゼ『私の二十世紀』)
(中略)ベンヤミンたちの世代が直面したのは、このような権威主義的リベラリズムの文化とそれが秘めている攻撃性と自己破壊力だった。(『現代思想の冒険者たち』から59-61p)
その後、1905年にテューリンゲンのハウビンダという田舎の寄宿学校に転校し、二年をそこで送る。当時イギリスで起きたニュー・スクール運動に影響を受け、学業と実生活の分裂の克服が説かれた。生活関連の実科に加え、真に批判的に考えさせる「学問的―理論的」教育も標語となった。そういった理念に対して、ベンヤミンは批判のまなざしを向けていたという。
また、このころ、ベンヤミンはドイツ青年運動に強く影響をうける。
(前略)しかし、その場を満たしている雰囲気は、精神の純粋性、世俗を遠く離れた修道院的な共同体を貫く「エロス」*1なるものであり、さらには、「指導者(フューラー)」と「従者」、もしくは「指導」と「臣従」が標語であった。ヴィネケンは偉大な革新運動の「指導者(フューラー)」なのであり、彼に付き従って、青年たちは親の世代の権威ばかりでなく、なまぬるいリベラリズムの目に見えない壁を突き破り、真の自由へと「偉大な出発」を果たすべきだとされた。個人主義の欺瞞を打ち破って一人一人は、「個人的存在であることをやめて」「新しき信仰」に身を献げ(ささげ)、大いなる全体へ向けての果敢な脱出へと思いを高める―こういった語り口がなされていた。「盟約」、「星」、「突破」、「奉仕」などなど。(『現代思想の冒険者たち』から62p)
青年運動は決して特殊な人々の集まりではなく、当時のギムナジウムの生徒の非常に多くの心を捉えていた。東北大学で教鞭を執ったレーヴィット、原子物理学者のハイゼンベルグ、現在のドイツでもっとも重要な出版社であるズーアカンプ書店の創始者ズーアカンプ、その他実業界のトップも輩出されている。
知的にも政治的にも後進国であったドイツで、マルクス主義にも、ラディカルなデモクラシーにも無縁な上層の若者たちがなんらかの革新を求めたときには、こうした、熱っぽいだけの混沌しか道がなかったのだろう。だが、逆にそれが、二十世紀の政治地図とは違う可能性をベンヤミンに追求させたきっかけになったのだから、思想というのはわからない。菜食主義運動、新型靴運動、新石鹸運動、反アルコール運動、全裸日光浴運動、男女混合日光浴運動、芸術家コロニー運動、ヘッセやミューザムも関係したアスコナの新コミューン運動、また都市では自由舞台運動や生活協同組合運動、およそありとあらゆる脱出の運動が、相当怪しげなものもふくめてうごめいていた。一部は二十世紀の悲劇を生み出すメンタリティにもつながる青年運動もそうしたコンテクストにおいてみる必要がある。
その中でもニーチェに発し、ヴィネケンの運動や、場合によってはハイデガーにもつながる文化的革新運動は、後に青年保守運動と呼ばれる。単純な守旧派ではなく、存在しなかったかつての生活の壮大なヴィジョンを呼び出すからであろう。(後略)(『現代思想の冒険者たち』から66p)

2.1.3 フライブルグ大学・ベルリン大学時代
その後ベルリンに戻り、アビトゥーア(大学入学資格試験)に合格。その夏フライブルグ大学に合格し哲学科の生徒となる。当時の生活改革運動が自らを哲学的な背景で理解していたからであろう。ちなみに、ハイデガーも同時期にフライブルグ大学の生徒であり、リッカートの講義を共に出席していた。
大学に入ってもベンヤミンの最大の関心事はヴィネケンの自由学校共同体ヴィッカースドルフの運動であり、それを支えるための学生サークルを、師の「指令」で創設することだった。全国の大学にそうしたものを作るのが、この精神主義的な改革論者の作戦だった。大学生は職業の予備軍ではなく、「純粋な文化」なるものの担い手にふさわしく、この濁った、生温い時代に高山の冷気と砂漠の灼熱の太陽を持ち込む人々とヴィネケンは考えていた。フライブルグ、ベルリンとヴィネケンの運動のために大学を何度抱えた後、ベンヤミンは1913年の冬学期から15年の夏学期まではドイツ帝国の首都にとどまる。ベルリンでは、「学校改革サークル」や「自由学校共同体連盟」の支部会員、「自由学生連盟」の執行委員と多くの活動に加わっていた。(『現代思想の冒険者たち』から69p)
以上の活動に加え、ベンヤミンは雑誌『出発』、および定期的集会としての「討論室」を活動の場としていた。この『出発』は学校教育への不満、現実と妥協している親の生活への慨嘆、愛や性欲へのエッセイにあふれていたために、検閲、場合によっては召喚、罰金、退学などを気にしなければいけなかった
ベンヤミン自身の文章も激烈な学校批判だった。例えば、「授業と評価」という文章がある。ここでいう「評価」は、国語の授業での作品評価のこと。「クライストからこっちは取り上げる気はないよ」、「いわゆるモデルネは醜悪の限りだ」、「イプセンはチンパンジーのような顔をしている」と公言してはばからない保守的な教師。作品の真の内実に立ち入らないで、筋書きの分析のようなことばかりして最後は常套句でまとめる。中世のテクストはただ現代語に訳すだけ。作品の本当に「精神的な」評価、その内実が論じられるべきなのに、現実の中で深くあきらめている教師たちにはその意欲がいっさいない、と筆法は鋭い。次の号に載った続編では、ギムナジウムのお家芸である「課題作文」への批判が記されている。やることのない教師が暇つぶしに自分の権力を楽しむために、作文を書かせていることが見抜かれている。こどもはお見通しなのだ。(『現代思想の冒険者たち』から72p)
反抗的なベンヤミンにとって、教師の標語は「若いころは変革を求めていたが、経験によってそれが無理だということがわかる」であった。それに対し、重要なのは経験できない価値、それ自体のうちに根拠を持つ客観的で即時的な存在としてのいっさいの真善美に意味があると主張した。親世代が服してきた経験・大人のかぶる仮面=現在に対する過去の支配を「経験」というタイトルで最も憎んだ。
また、ベンヤミンの活動のなかで、『出発』と並んで重要だったのが「討議室」と題された講演と討論の夕べの世話であった。高級住宅街と労働者街の境界あたりに一室を借り、講演を聞き、また討論を行った。
「討論室」には、マルティン・ブーバーやルードヴィヒ・クラーゲスのような論客も招いたが、ベンヤミン自身も講演している。一九一四年五月四日、会長に選ばれた自由学生連盟の設立総会をこの討論会で行ったときの記念講演「学生の生活」である。進歩的歴史観とその幸福主義を瞬間や断絶の名において批判した、本講演冒頭の文章は、本書「プロローグ」の冒頭に引いてある。*1
大きく見ると、ベンヤミンがこの講演でドイツの大学や学生の現状に見ている問題は三つある。第一は、は、大学と職業選択との、つまり学問と有用性とのあまりに緊密な結びつきである。(中略)ベンヤミンにしてみれば、大学はタイトルや資格を、要するに格差を国家の名において作り出す場に成り下がっていて「認識するものたちの共同体」とはなっていない。学生は没批判的で、精神的統一体を生み出していない、のである。
第二には、「青春時代」というのが、職業に就き、家庭を持ち、子供を作り育てる社会人の生活までの過渡期であると考えられているため、放歌高吟の学生団体の似非ロマンチシズムと、その後の人生をにらんでのきわめて因習にとらわれたエロスが当たり前のようになっている。
(中略)第三は、すでに触れたが、労働者との連帯や社会福祉活動に血道を上げる学生たちへの強烈な批判である。彼らは大学と社会との間の亀裂を大学内部で再生産しているに過ぎず、奉仕に潜むエゴイズムは結局は国家に役立つだけである。(中略)むしろ、学生が本当に創造的な役割を果たすのは、「学問においてよりも芸術や社会生活において早く現れる新しい考え方を、哲学的態度を通じて学問的問いへと移し替える<大いなる変圧器>としてなのである」と結論付ける。学問の尊大さを戒めるとともに、一定の批判的意義を与えてくれている。この文章は今でも通じる考え方であろう。
こうした現状診断に対して、彼は、大学が「常なる精神的革命の場」となることを要求する。必要なのは、「理念(イデー)で自己を満たすという原則」であり、個人的動機によらない学問であり、(中略)仲間内とは無縁の、人類の普遍性につながる共同性である。実はこの演説は、自由学生連盟ですら、彼の理念と離れていることへの遠まわしの批判であった。(『現代思想の冒険者たち』から91-93p)
*1
「時間の無限性を信じ、人間も時代も進歩の軌道上を進んでいくものとし、違いを見るとすれば、そのテンポが早いときもあれば遅いときもするだけの歴史観がある。こうした歴史観は、中身に一貫性がなく、現代に何を要求するのかが曖昧模糊としている。それに対して、これから述べることは、昔から思想家たちのさまざまなユートピア的イメージにおいてそうであったような、歴史がひとつの焦点に凝集しているある特定の状態に向けられている。最終状態の構成要素というものは、あいまいな進歩的傾向なるものとしてただその辺にみとめられるといったものではない。そうではなく、そうした構成要素となる所産や思想は、最も危殆に瀕した、最も嫌われ、最も嘲笑われるものとして、そのつどの現代の中に深く組み込まれているのだ。完璧性に内在する状態を絶対的なものへと作り上げていくこと、そうした状態を可視的にしし、そうした状態が現代において支配的となるようにすること、これこそ歴史に関わる課題なのだ。この完璧性に内在する状態を描くのは、個々の瑣末な物事・・・・・・を実際的に述べることは不可能で、そういった書き方では、逃げていってしまう。そうではなく、この状態は、メシアの王国とかフランス革命理想といった、その形而上学的な構造においてのみ把握可能なのである。」(『現代思想の冒険者たち』から12P)
このような「政治的実践」のラディカルな拒否は、次第に政治化する現実の青年運動への批判的態度へとつながる。
1913年に行われた青年運動の集会において、絶対的な精神性と孤独を重視するベンヤミンたちの自由学校運動のサークルは、何らかの綱領に基づく具体的な政治路線を求めるいくつかの強力なグループにとりまかれて、孤立していった。
そして1914年の8月に至り、総動員令が下る。ベンヤミンの理想主義は一気に崩壊を迎えることになる。親友は自殺する。かつて師と仰いだヴィネケンは、戦争以前に示していた戦争反対と打って変わり、開戦後にドイツ国粋主義を吹聴し始める。そしてベンヤミンは開戦後しばらくして、青年運動との一切の関係を絶ってしまう。
ベンヤミンは開戦後しばらくして、青年活動との一切の関係を絶ってしまった。友人との交際を含めて。この返信はよほど唐突だったようで、かつて『出発』にエロスの解放を求める激しい文章を書いた友人へアバート・ベルモア―後にカーラ・ゼーリヒゾーンと結婚した―などは、60年以上経った1977年になっても、身勝手さを批判している
結局のところヴァルターは人間のことをなにもわかっていなかった。彼は理念(イデー)*1の中で生きていた。そしてその理念(イデー)は多くの場合間違っていた。長い年月を経た現在でも私は、青春時代の友人との彼の絶縁を許せない。彼の人生に固有の馬鹿さ加減のひとつである心の冷たさを別にしても。
こうしたことはよくあって、ベンヤミンは、とてつもなく知的かつ精神的でありながら、日常の行動においては判断が悪いばかりでなく、女性関係に限らないそのエゴイズムと身勝手さは、彼を天才と認める多くの人でも神経にさわったようだ。(『現代思想の冒険者たち』から98p)

2.1.4 青年運動との訣別
1915年秋、ベンヤミンは婚約者グレーテ・ラートのいるミュンヘン大学に転じる。この大学の講義はベンヤミンにとって退屈なものだったらしい。ただし、それまでもあまり入れあげるようなことはなかったらしい。ベンヤミンは教師から決定的な影響を受ける田舎者の哲学者とは無縁だった。
しかし、1914年の講演会での花束贈呈にグレーテ・ラートが出席できなかったため、代役で花束贈呈をしたドーラ・ソフィー・ポラック(その時婚約者がいた)と出会い、グレーテ・ラートとは婚約を破棄し、ドーラと結婚をする。
結婚した二人の許に、ユダヤ人青年運動で活動していたゲルハルト・ショーレム(親友)が訪れた際の日記がある。
ヘルダーリンの全集、ピンダロスの古い翻訳、みなが好きだったジャン・パウルの豪華本の並ぶ書斎。大きな部屋の高い天井。風景は雨に煙っている。ピンダロスの頌歌をギリシア語で朗読するベンヤミン。「私は深い感銘を受けた。これらの歌には神々しい響きがある」。第一次世界大戦の真っ最中である。なんという知的で壮麗で、かつ絶望的に無残な世界であろう。滅び行くひとつの時代の教養。
ショーレムはブーバーの編集する雑誌『ユダヤ人』の第一号に書いた自分の論文を朗読する。ベンヤミンは深い沈黙の後「すばらしい」とほめた。「ユダヤ人青年運動」と題したこの論文は今日読んでみると、ベンヤミンよりもはるかにシオニズム的という印象は拭いえない。ヘルツルの遺志を継いで前進しなければならないのに、ユダヤ人青年運動が真の「決断」に達していないとショーレムはこの短い論文の中で嘆く。「ベルリンのことを考えてもシオンを望むことにはならない」と。ドイツのユダヤ人が考えるドイツ精神との総合なるものは「混乱」でしかないとも。ヘブライ語使用への決意も欠如していると彼は怒っている。ベンヤミンがしばらく沈黙していたというが本当なら、それはかなり多義的かもしれない。
事実、その後の議論で二人の意見は一致しなかった。(中略)その後三人で徹底的にブーバーの悪口を言った。特にブーバーが〈ユダヤ的なものの体験〉などと「体験」の語を多用するのはたまらない。貴方もそれはやめたほうがいいと、ショーレムは言われた。主観的で個人的な体験概念は、客観的な理念(イデー)に焼き尽くされるという発想にとっては無意味だった。それにブーバーは、多くのドイツ教養人と同じに「戦争体験」に肯定的だった。シオニズムが農耕社会、人種イデオロギー、血と体験という三点を重視するのを、ベンヤミンは徹底的に嫌っていた。
またブーバーは〈収縮する神〉の教義にとらわれすぎていて、はるかに高く存在する神という考えを無視しすぎているとベンヤミンは述べた。そういう彼は、ショーレムから見ると東欧のラビのアハド・ハム(アシャー・ギンツベルグ)に近い。特に〈正義〉の理解において近いことをベンヤミンも認めたようだ。これは若干説明を要する。
16世紀のパレスチナのユダヤ神秘主義者イサアク・ルリアや『ゾーハル(光輝)の書』(13世紀末)に代表されるスペインのカバラ思想*6に、神は次第に収縮し、物質となっていく、という教義がある。物質へと収縮しきった神は地上にいわば「亡命」しているわけである。いつの日か地上に真の共同体が成立すると、神は救済される、つまり物質もしくは自然が救済されるという考え方がある。このあたりは、後にカバラ学者になったショーレムが『ユダヤ神秘主義』や『カバラとその象徴的表現』などで描いているが、自然の救済と神の生成とが同一視されるこの思想は、有為転変末シェリングにも吸収され、ブロッホやアドルノにいたるまで続いていて、ベンヤミンも無縁でなかった。
だが、ベンヤミンからすれば、この伝統を継承するだけでは不十分で、物質界の遥か上にいる、物質界とは無縁の至高の絶対の神、理念(イデー)の支配する精神の世界という今一つの神の理解を放棄してはならない、ということであろう。生成する神の考えには、物質へと収縮した神の救済のために人間が主体として自己の体験によって行為するという実践の契機が伴う。それは、歴史の実現への主体的参画という考えにもつながる。そうした方向をベンヤミンが拒否しているわけである。(『現代思想の冒険者たち』から113-115p)

2.1.5 博士号取得後
ベンヤミンは博士号取得後、親との衝突を経験する。ユダヤ人は裕福になってはじめて一人前になるという考え方を持つ親と、書物と文字の世界にしか興味のない息子は、衝突するのも当たり前であった。
博士号を取得したベンヤミンは、一九一九年の夏をアルプスの保養地で過ごした。ドーラも、前年に生まれた息子シュテファンも、そして養育係の女中も一緒に。贅沢といえば贅沢。もちろん、費用は父親からの仕送り。しかも、父親には博士試験の合格は内緒にして、出かけている。その方が仕送りが続くという計算。その父親も、敗戦後のドイツ経済の瓦解に直撃され、以前の余裕はなくなっていたのに、ヴァルターたちは戦前の大ブルジョワの生活スタイルと簡単に手を切れなかった。その後も長いこと「金銭上の問題について戦前の考え方にいかに強く支配され続けてきたか」はハンナ・アレントが指摘するとおりである。
だが、どこからか博士号取得を聞きつけた両親が突然、若夫婦の休暇先にやってきて、厄介な事態になった。将来を気遣って、実業に就くことを要求する両親との葛藤が始まる。裕福であってはじめてユダヤ人は認められるという経験則からしか考えられない両親と、書物と文字の世界にしか興味の無い息子。しかも妻と子供を抱えて親の援助を当然視する態度。今から見ればどっちもどっちということかもしれない。順調に進めばベルン大学で教授資格論文までいけそうだというあまり根拠のないことを言って、ヴァルターは強硬な父をとりあえず引き取らせた。若夫婦はさらに9月末から11月はじめにかけて、スイスのルガノ湖畔でさらなる休暇を続けている。そこでは「運命と性格」という重要な、1921年に雑誌『アルゴナウテン』に掲載された論文を書いている。
ルガノの休暇の費用の一部は、妻ドーラのアルバイト費用で賄った。敗戦でハイヒスマルクが反古同然の時期に、彼女は英語の推理小説の翻訳で外貨を稼いでいた。後のベルリン時代にも、英米の特派員の事務所に勤めてドルを得ていたのは彼女である。ベンヤミンが後にカプリ島に行けたのもその資金があったからこそ。彼も結構虫がいい。
ルガノの休暇の後、仕送りを止められ、スイスに居続けるのは不可能となり、ベルンでの教授資格取得も夢に終わった。最終的に1920年春、ベルリンのグルーネヴァルト地区、緑の豊富なデルブリュック通りの両親の邸宅に戻ったものの、たちまちのうちに親と大喧嘩になった。
(中略)結局一家は親の家を飛び出し、幸い友人のグートキント夫妻が手を差し伸べてくれ、郊外の団地にある彼らの住居に居候することができた。上流ユダヤ人家庭の出身であるエーリヒ・グートキントもやはり同じ理由で親と衝突したため、「身分」にふさわしくない団地に住んでいた。彼も大変な人物だった。1910年に出した、メシア的救済への憧れの書『鉄の誕生―世界の死から行為の洗礼にいたるセラフィウム天使の彷徨』は国際的にも知られて、ロンドンには彼の崇拝者グループができており、後に亡命の途上で支えとなった。ちなみにこの団地は、バウハウス*1の建築運動の所産で、ブルーノ・タウト*2の設計による。バウハウス運動の中心となるグロービスがそうだが、当時のユダヤ人たちのメシア的ユートピア思想と機能主義との関連は銘記しておくべきである―もっとも、豊かに育ったベンヤミンは、ここで団地住まいの楽しくないところもたっぷり味わったようだが。(『現代思想の冒険者たち』から158-160p)
そして、時代は1923年以降に移る。ベンヤミンは、妻ドーラとの関係がギクシャクし始めるものの、どうにか新設されたフランクフルト大学に職を得ることになる。
まずは、成立の背景から。ドーラとの関係がぎくしゃくしていたベンヤミンは、1923年以降、ベルリン市内に一人で住んだり、両親やドーラ、それに息子のシュテファンのいるグルーネヴァルトの豪邸に経済的理由から戻ったりと不安定な生活が続いた。さらにその間に、教授資格論文の引き受け教官を求めて、ハイデルベルグ、ギーセン、フランクフルトなどを転々とした。ハイデルベルグでは、結局哲学科がカール・マンハイムを選んだため、無理となったが、1923年の末頃からフランクフルト大学でなんとかなりそうな可能性が出てきた。
市民によって1914年に創設されたフランクフルト大学は、新しい大学としてユダヤ系の教員採用にも慣用だった。後にフランクフルト学派と通称される知識人サークルが生まれた理由のひとつもそこにある。ベンヤミンもこの年の夏には、フランクフルトで、当時『フランクフルト新聞』の編集部にいたクラカウアーとともに、アドルノと知り合いになっている。だが、直接にはベンヤミンの母の叔父アルトゥール・モーリッツ・シェーンフリースが教授をしていて、元学長という影響力を持っていたことが大きいようだ。それも働いてか、ドイツ文学部シュルツ教授が引き受けてくれそうだった。ただし、『親和力論』だけでは不十分で、アカデミックな世界で生き残るためにはもう一つ何か書かねばならなくなり、あまり気の進まないままにはじめたのが、バロック研究。1924年の春には書き始めるために大体の準備は整ったが、時代はゆっくりものを書く雰囲気ではなかった。収束したとはいえインフレの傷は深い。ザクセンやテューリンゲンでの共産主義者の蜂起、ヒトラーのミュンヘン一揆の後遺症が抜け切れていない。そういうドイツを出て外国で書く算段を彼はした。
(中略)行き先はナポリ湾のカプリ島。4月から10月はじめまで滞在した。もともとこの島の観光開発はドイツ人に多くを負っていた。地中海を見下ろすパノラマ通りは今でもクルップの名を冠している。行きやすかったのだろう。カプリに誘ったのはグートキント夫妻。旅立つ前に、グートキントは、共通の友人ラングに書いている。「もう[ドイツとの]おつきあいはごめんだ。ハーケンクロイツの軍靴に踏みにじられるのは、まったく無益かつ無意味。・・・・・お別れの上等な道を行くつもりなら、まず最初の里程標はカプリだ。あそこならまた出会いがある。あそこはユダヤ人にとっても唯一無比の地だ。」ダートキントの手紙にはカプリまでの旅費やビザ取得料や物価の安さが克明に記されていて、「目もくらむような紺青の海が楽しみだ」という決まり文句は最後になって初めて出てくることにも、事情が推し量られる。
もっとも、その安い滞在費でも、ベンヤミンは、古本屋に貴重な書籍をいくつか売り払っただけではまかないきれず、ドーラの稼ぎも使った。さらには、超有名人のホフマンスタール*1から激賞された手紙を父に見せてダメ息子ではない証明にして才能投資をさせた。一説によると、骨董商売に詳しい父はこの文豪の手紙の将来的価値を見越して息子に金を与えたとも言われる。先にも書いたが、アドルノ*2やブロッホ*3、ブレヒト*4、アルフレート・ゾーン=レーテル*5と思いつくままに挙げても、この時期には多くのドイツ知識人がインフレと不穏な政治情勢を逃げ出して、物価の安いイタリアに滞在した。彼らは何らかの方途でドルを手に入れたか、スイスに口座を持っていたために、外国旅行ができた。いつの時代でも知識人のほうが言い思いをする仕組みは、考えさせられてしまう。こうした日々の知的支配に対する民衆の恨みがファシズムと関係していることは、アドルノが戦後に「文化批判と社会」と題した『プリスメン』の論文で取り上げる。文化人の家に押し入った親衛隊員はなぜピアノを叩き壊したのか、と。(『現代思想の冒険者たち』から217-220p)
カプリ島で執筆した「ドイツ悲劇の根源」をフランクフルト大学へ教授資格認定申請するものの、ベンヤミンがユダヤ人であることと文学部の排外性ゆえに、論文取り下げという結果に至る。
予定より少し遅れたが翌25年5月には論文『ドイツ悲劇の根源』を添えて正式に教授資格認定申請をフランクフルト大学にするところまでこぎつけた。しかし、結局この論文は受理されなかった。(中略)やんわりと結果を岳父経由でベンヤミンに知らせ(中略)今では考えられないやり方だが、正式の却下というのは、ちょっとした騒ぎになるし、裁判を起こすことも可能で、まだまだブルジョワ階級の独占していた大学はそういうことを好まない雰囲気だった。(中略)むしろ、ドイツ文学の教授資格に応募したベンヤミンの「世間知らず」ぶりは、善し悪しはともかく確認しておくべきだろう。哲学や、理科系の学問ならいざ知らず、ドイツ・ナショナリズムの温床であり、プロテスタント系で固めたドイツ文学科のポストにユダヤ人のベンヤミンがつけるわけがなかった。ユダヤ系でドイツ文学科の教授は後にも先にもほとんどいない。人口が四割強を占めるカトリック教徒ですらめったなことではドイツ文学科のポストにはつけなかった時代である。(中略)このあたりはハンナ・アレントが言うとおり、世間知らずというか無邪気というか純粋というべきか・・・・・。(221-222p)

2.1.6 アーシャ・ラツィスとの出会いと、共産主義への接近
またベンヤミンは、カプリ島での論文執筆期間中に新たな女性と出会う。うらやましい。女性革命家であり美貌の持ち主であったアーシャ・ラツィスである。この出会いはベンヤミンに対して、多大にというわけではないがある程度左派への接近を促したという。
こうした内容の論文を書いていた一九二四年夏のカプリ島でベンヤミンは、ラトヴィア出身で共産主義演劇活動の美貌の活動家アーシャ・ラツィスと知り合う。「リガ出身のロシアの女性革命家、私が会った中でも最も優れた女性の一人」(ショーレム宛、一1924年7月7日)から「ラディカルなコミュニズムのアクチュアリティ」を知ることができると手紙で読んで、エルサレムのショーレムは驚いた。当時のベンヤミンは、ドイツ共産党に批判的で、この手紙の少し前に他の友人への手紙で、共産党代議士だったショーレムの兄ヴェルナーの悪口を書いているほどで、そのことは前年にパレスチナに移住したショーレムもよく知っていたからである。
当時、ブレヒトと共同作業をしていた演出家ベルンハルト・ライヒと暮らしていた彼女は(中略)娘ともにカプリに滞在していた。1979年まで生きていた彼女が70年代初めに書いた回想『職業革命家』によれば、八百屋の店先でものの名前が分からず困っている彼女に声をかけたのは、ベンヤミンの側のようだ。しかも大分前から彼女にいわば「目をつけて」いたらしい。天才でもこうした次元は凡人と変わらない。次第に距離を縮めていったベンヤミンは、『根源』の仕事のかたわらいくども彼女に出会い、一緒にナポリやその周辺を歩き、さまざまな議論をしている。
彼から見れば、十月革命の話、マヤコフスキー、メイエルホリドらのロシア・アヴァンギャルドについての、そしてブレヒト周辺の演劇の理論や実践についての話は、そしてなによりも共産主義運動の多様な側面に関わる議論は、言語論、ユダヤ神秘主義、ドイツ・ロマン派やバロックの奥深く分け入った、どちらかといえば秘教的なこれまでの知的選択かけ離れた具体性の世界に関心を持たされることになった。
(中略)ベルリンに戻り、十二月末になるとショーレムに白状している。
「ベルリンでは・・・・私が明らかに変わったと皆が一致して言っている。・・・・・共産主義的なシグナルも・・・・・―そのうちカプリからのそれよりももっときちんとしたシグナルを君のところにも届けるつもりだが―まずはひとつの転換の徴候だった。つまり、現在のさまざまな契機、さらには政治的な契機に私の思想の中でこれまでのようにおとなしい仮面をかけるのではなく、そうしたものをもっと展開する、そしてためしに極端なまでに展開しようという意志をこの転換は私の中に引き起こした(ショーレム宛)、1924年12月22日)
「ためしに極端なまでに展開する」のは、極端こそ認識の手段であるとする彼の手法にはちがいないが、トーンが少し変わっているのは確かである。
(中略)実際にはベンヤミンの左旋回は、すでに大分前から起きていた。さかのぼれば対戦前の文章でも、当時の社会や文化へのはっきりした拒否であった。(中略)社会的・政治的現実への関心がアーシャによって引き起こされたというのは少なくとも間違いである。また、ある程度〈現実〉なるものへの視点が動いてゆくのは、大戦後のまったく変わってしまった社会の中で自らの定位を探し求めていた以上、当然のことである。ただ、その現実への関心がラディカルな共産主義運動の視点を多少なりともとったことにアーシャの影響があったこともたしかである。(『現代思想の冒険者たち』から249-253p)
その後、共産主義演劇に打ち込み続けるアーシャを追ってベンヤミンはリガへ行ったり、病院に入院したと聞けばモスクワを訪れたりした。結果的にベンヤミンはアーシャとの結婚を考え、ドーラと離婚する。しかし、アーシャはモスクワに帰り、その後強制労働に従事させられ、ベンヤミンとは結ばれることはなかった。
手みじかにその後の二人の男女の関係を辿っておこう。ベルリンで二人は一度会うが、アーシャは、じかにリガに戻った。検閲の厳しい環境で(当時ラトヴィアは資本主義国)非合法の共産主義演劇を指導しているアーシャを追ってベンヤミンは1925年11月にはリガまで出かけている。そのときには、演劇活動に忙しいアーシャにまともに相手をして貰えず大分落ち込んだようだ。その記録は『一方通行路』にある。そもそもこの本の中には色々な意味でアーシャとの関係を扱った節が二十以上はある。例えば
好きな女性と一緒にして、彼女と話をする。それから数週間か、数ヶ月かが経って彼女と別れ別れでいるときに、当時していた話をおもいだすことがある。ところが今や、そのときの主題は馬鹿くさく、どぎつく、浅薄になってしまっている。すると気がつくのだ。愛のゆえにその主題の上に深く身をかがめていた彼女が、彼女だけが、その主題に影のように寄り添って守り、いっさいの壁の奥や隅々にいたるまで思想が陰影をもって生き生きとしているようにしてくれていたのだ、と。今のように一人でいると、我々の認識の光を浴びたその思想は平板で、味もそっけなく、陰影を持たないものになってしまっている。
この文章からも分かるとおり、ベンヤミンは女性については典型的なブルジョア社会の上流男性の持つイメージを一歩も出ていなかった。(これは批判ではなく、ベンヤミン理解のために必要な情報である)。―「本と娼婦はベッドに引っぱり込むことができる」。「本と娼婦は陳列の時には背中を見せることを好む」(同じく『一方通行路』)
翌1926年、ベンヤミンは3月から10月にパリに滞在したが、アーシャのパートナーのベルンハルト・ライヒから、アーシャが神経を病んでモスクワの病院に入院しているとの知らせが届いて、遠路はるばるモスクワに出かけることになる。(中略)アーシャに近づくことも目的だったが、彼女の影響も合って共産党入党を考えていた彼には、ソ連の現実を知ることが重要だった。
(中略)最終的にはソ連の現実に彼はいかなる幻想も抱かないようになった。モスクワ到着時にはショーレムにオプティミズムに溢れた文章を書いていたが、結局のところ、西側の自由な世界の人間として、当局の機構の中で自由闊達な議論や行動ができなくなっている人々とうまくいかなかったのである。(中略)快復したアーシャは1928年秋にソ連通商部の映画担当官としてベルリンにやってきた。ベンヤミンは、予定はしていたが躊躇していたパレスチナ旅行を取りやめるほどの「歓迎」をして、結局28年12月から29年1月までの短期間二人は一緒に暮らしている。(中略)しかし、ショーレムに言わせれば、当時このカップルと交流のあった人々はアドルノも含めて一様に、「二人は喧嘩ばかりしていた」そうだが。それでもベンヤミンは、アーシャへの情熱を保ち続け、ついに29年春には、彼女との結婚を想定してドーラに対する離婚訴訟まで起こす。だが、裁判の結果を待たず、30年春にアーシャはモスクワに戻ってしまう。その動機はよくわからない。この年に離婚は成立したが、ベンヤミンは家屋敷その他ほとんどすべてを失ってしまった。
(中略)アーシャには過酷な運命が待っていた。1938年にスターリンの大量逮捕にあい、カザフスタンの労働キャンプで十年を過ごすことになる。(『現代思想の冒険者たち』から254-258p)
加えて、ドーラとの離婚調停についても言及しておく。ベンヤミンはドーラと離婚するために、「ドーラが不貞を犯した」というかどで裁判を起こし、慰謝料その他の財政的負担を免れようとした。しかし、ドーラとベンヤミンはそれぞれ好き勝手に相手を作り(しかも双方承知の上で)、ベンヤミンはそれを承知で生活資金を貰っていたという。それゆえ、裁判官はドーラに対して不貞を非難する資格はないと結論付ける。
ドーラもよくコラム記事を書いて、そのなかで、男は天才であればあるほど女性をにすぐに母親を見て甘えたがるのでとてもやっていけない、などといった、ひょっとしたら私生活を踏まえての文章を書いている。また、1929年のケーニヒシュタインとは、そこでアドルノやホルクハイマーと会って、パサージュ=プロジェクトについての決定的な会話がなされた保養地である。
ドーラは実際にベンヤミンの手の早さ、女性関係の身勝手さにはさんざん苦労したようである。ショーレム宛の彼女の手紙(1929年7月24日)などには、ヴァルターのボルシェヴィズムもアーシャとのセックスのための口実でしかないなどと罵っている。彼の思想はすべて人のためである。ショーレムとの関係からシオニズムにこびを売り、逆にアーシャとの関係が中断している頃に友人に紹介して貰ったユダヤ人でない女性たちにはシオニズムを恥じたりしている、と。
(中略)天才の楽屋裏はさんざんである。しかし、あまり特殊なことだと思わないほうがいい。ベンヤミンが批判する新即物主義(Neue Sachlichkeit)の時代の全体的雰囲気から彼もドーラも自由ではなかったにすぎない。その点を見ないととんでもない思い違いをすることになる。(『現代思想の冒険者たち』から260p)

2.1.7 亡命
1931年ごろからベンヤミンはドーラと離婚した後、経済的負担も作用したのだろうが、深刻なうつ病に罹る。ドーラ、ユーラ、アーシャとの「三つの大きな愛の経験」の終了とともに、「生き終えた」という感を強めたようだ。翌年の夏にニースを死に場所に定め、40歳の夏に決行しようとしたふしがある。そうしているうちに段々とドイツは右傾化してゆき、ベンヤミンの仕事口は減っていった。
ちなみに、1920年代からのベンヤミンの女性関係は依然として衰えていない。
余談だが、彼の女性関係は実際には1920年代から驚くばかりに「多彩」かつ同時並行型だった。この時期でも、前年の死の日記に出てくる女性と、この年、ニースの前にイビサ島でしばらく一緒に居た女性(オーラ・パーレム)はそれぞれ異なるし、一説によるとバルセロナにも別の、ドイツ人医師と離婚して暮らしている女性がいたとされる。この32年の初夏から夏にかけて、つまり暗鬱なニュースの数日の前の数ヶ月、彼は、ミュンヘンの学生時代に知り合い、「天才」とあがめたこともある物知りの友人ネッゲラートの誘いで、地中海に浮かぶスペイン領のイビサ島で暮らした。このときには、28年以来相当に親しかったロシア系ドイツ人のオーラ・パーレムが同行していたようだ。しかし、そのことと青年運動以来の三人の女性との運命が終結したという感慨は別だったらしい。
亡命という暗黒の時期を通じて、ベンヤミンであれ、ホルクハイマーやアドルノであれ、夏のすごし方に心を砕き、ほぼ必ず「定住地」とは異なることに「休暇」で出かけている。とりあえずオクスフォードに亡命していたアドルノはときどきドイツで休暇を過ごしている。政治の力によるやむを得ぬ悲劇的移動もあったがそればかりでない移動も多かった。(『現代思想の冒険者たち』から372p)
その後、夏から秋にかけて、ハウビンダ校以来の友人シュパイアーの車でイタリアに行き、滞在する。旅費に困っていたため、シュパイアーがベルリンに帰る車に便乗し、11月中旬頃ベルリンへ帰郷。
翌年1933年、文字通り第三帝国の開会式が始まり、同時にユダヤ系知識人への弾圧が始まる。親しかった人々は相次いで亡命し、同じくベンヤミンも3月にパリへと亡命する。
そしてパリでは亡命中のフランクフルト研究所の所員となる。
亡命生活の始まった33年春に話を戻すと、ベンヤミンはパリにいたのはほんのちょっとで、すぐに前年イビサ島で知り合って急速に親しくなったフランスのジャン・セルツ夫妻とイビサ島に逃避、そこに十月までいた。その日々に「ベルリンの幼年時代」のフランス語訳をジャン・セルツが試みたが、ベンヤミンの語感の厳しさに遅々として仕事が進まなかったと、彼は思い出に書いている。イビサでマラリアにかかり、ほうほうのていでパリに戻ってからのベンヤミンは、文字通り貧窮し、ユダヤ人の救援組織の援助も仰いだようだし、持っていた書籍を売り払うなどして生活をつないでいた。細かいことは省略するが、そうした事情もあって、すでに組織自身が、とりあえずパリとジュネーブに亡命していたフランクフルト社会研究所の所員となり、十分ではなかったし、色々な意味で不安定ではあったが、その奨学金で何とかやっていかざるをえなくなった。
だがそうした力関係のゆえか、研究所との関係は、ベンヤミン・サイドから見れば最後まで透明ではなかった。ホルクハイマー、アドルノの意向に、そしてよくわからない研究所の方針なるものに自分を合わせる必要もあったし、またそれほど気にそまない仕事も引き受けざるを得なかった。その代表が「現代フランスにおける作家の社会的地位」(1934年)や「エドゥアルト・フックス―収集家かつ歴史家」(1937年)などの、結果としては質の高い論文である。『社会研究』誌に載って、稿料も入った。だが、ボードレール論や『パサージュ論』の草稿などに関しては、多くの点で研究所首脳部と意見が食い違ったり、ベンヤミン自身が〈従属の先取り〉をしたために、俗流マルクス主義の言語に流れて、それがかえってアドルノたちの批判を呼んだりといったことが、さまざまにあった。途中でニューヨークから訪ねてきたホルクハイマーが困窮ぶりに驚いて、臨時支給金を出すようにしてくれたというエピソードもあったが、全体としていえば、ホルクハイマーとは今一つウマが合わず、研究所のなかで、ベンヤミンの、神学とマルクス主義の結合を、しかもパリのパサージュ論を論じながらそれを果たそうという目論見を大きな関心と熱狂を持って理解してくれたのは、アドルノだけだった。
そのアドルノも、両者と関係のあったゾーマ・モルゲンシュテルンによると、ベンヤミンにたいしては結構おせっかいで、ベンヤミンの方も会合の途中で、「後でこいつ抜きで飯を食おう」とモルゲンシュテルンにささやいたこともあり、またベンヤミンの死後ニューヨークでアドルノはモルゲンシュテルンに、「複製技術時代の芸術作品」について、「あれはちょっとした始まりにすぎない、俺がその先もっとでっかいことを書くんだ」などとも述べていたらしい。さらにニューヨークの研究所では、ベンヤミンが定期的に送ってくる現代フランスの文学や思想についてのレポートが垂涎の的だった。レポートが遅れたときのホルクハイマーの催促の手紙も残っている。だが、それにしては、彼への奨学金は小額で、教授が研究室のメンバーを搾取する古典的な構造とあまり異ならない。ショーレムは1938年ニューヨークで講義をした機会に首脳部と交流し、その印象をベンヤミンに書き送って(1938年11月6,8日)、アドルノ家で歓待を受けたことなどを中心に、ベンヤミンの不安や不信を取り除くべく、気を遣った報告をしている。しかし、そのなかでもホルクハイマーに対しては露骨な悪口を書いているし、この手紙の、残っている下書きには、「あの連中は精神のオナニストだ。自分でやるのは楽しいかもしれないが、生産的ではないね」と本音はかなり厳しい。ケストナーらのヴァイマール左派が甘い生活をしていたのと同じだと言うのだろう。ハンナ・アレントもホルクハイマーやアドルノを毛嫌いしていた。迫害と亡命のなかでも、知的エリートたちの、功名心とさやあて、露骨な好き嫌いの無数の証言はいろいろと考えさせられる。公開されている書簡集の理論的で配慮にとんだ豊かな文体に目をくらまされてはいけない。とはいえ、ベンヤミンもときどき使った比喩だが、方舟に乗ったノアたちの知恵を受けてか、公式の知的論争はフェアであり、また経済的連帯を維持する努力が常になされていた―また、最終的に自己保存が優先したことも、自己保存の理論家アドルノが率先して示している通りである。ベンヤミンの場合には、シュルレアリスムに、さらには十九世紀の自己破壊的な文学の伝統に学んだ自殺思考も含めて、そうした自己保存意志が思想として少なかっただけのことである。(375-377p)

ちなみに前妻のドーラは、イタリアへ亡命しそこでペンションの経営を手がけた。イタリアの反ユダヤ主義が強まった39年にイギリスへと亡命。イタリアからイギリスへ亡命する途中、ベンヤミンとパリで会い、一緒に逃げようと誘うがベンヤミンは断ったらしい。ただ、イタリア時代にベンヤミンは何度かペンションに世話になったらしい。経済的に大きな助けとなった。
その後、ナチスドイツのポーランド進行が始まり、フランスから敵性外国人として収容所に一時入れられるものの、ペンクラブの骨折りもあり、じきに釈放される。そして、アメリカに脱出するため、マルセイユへ向かう。ビザはあるものの、出国許可が下りないうちに、ヒトラーとペタンの間で、ナチス占領下でない地域のユダヤ人に対しても強制収容所行きの危険が迫った。そこで、スペイン経由でアメリカへ向かおうとするも、その二日前に当局の意向が変わっており、国境で足止めをされ、ベンヤミンはかねてより用意していた大量のモルヒネを服用し自殺する。

2.2 ベンヤミンの「翻訳」について
この章では上と同じく『現代思想の冒険者たち』より、「翻訳」についてどのように理解すればいいかを考える。
以下の文章から、翻訳とは
1. 人間が神に与えられた聖なる言葉である純粋言語に対して、
2. 現在の言語はコミュニケーションの道具と成り下がっており、
3. 翻訳という行為は諸言語が純粋言語へと近づこうとしていることを自覚させるような
4. 受容者から独立した一種の自立的存在
と考えることができる。
2.2.1 ブーバー宛の書簡
2.1.4において書いた、ブーバーに対して、ベンヤミンは書簡を送っている。そのときにあてた手紙がベンヤミンの言語哲学の理解に示唆的である。ベンヤミンが言葉をコミュニケーションの道具ではなく、その魔術性や言葉自体に重要性があると見なす考え方があることが伺える。
ことばを使って人を政治行動に駆り立てる文章は、戦争の始まりにさんざん読まされた。そこにあるのは、言語を行動のための手段とする発送で、そうした発想に立つと、言語が行動の手段ではないような関係は想像がつかなくなる。ことばを次から次へと繰り出し、その結果として方程式の答えをだすように、行動を導き出すやり方は、「正しいと絶対的に確信されたものを実現するというメカニズム」に堕している。そもそも、書かれたものは、詩文、予言、そして事象の三通りの「効果」を持ちうるであろうが、どの場合でもそれは「魔術的な」「直接的な」(un-mittel-bar、つまり行動のための手段ではない)ものとしてのみ考えうる。どの形態をとる場合でも、「伝達」ではなく、「言語の尊厳と本質の純粋な開示」が結果しなければならない。雑誌においてめざされるのは、三通りのありようから言えば、詩文や予言ではなく、〈事象に即した〉(sachlich)書き方であろう。
つまり、それは「言い得ぬものを純粋な結晶で抽出する」ことであり、それこそが言語の内部で言語によって「作用」することである。それは「冷静で醒めた」(nüchten)書き方によるしかない。政治行動を煽る時局分析などは問題にならない。「このようなことばなきものの領野が言い得ぬ純粋な力を明らかにする場合にのみ、ことばを揺り動かすような行為のあいだには魔術的な火花が飛び、ことばと行為という、ともに現実的なものの統一が成るのです。最内奥の沈黙の核へとことばが凝縮することが、真の効果にいたることなのです」。
(中略)実際に我々の日常的言語使用を注意深く見るならば、ベンヤミンがここで「伝達のため」といっている使用、つまり具体的な行動へと意見を一致させる使用は、生活スタイルによって異なろうが、思っているほど多くない。道具的な、また目的志向的な言語使用のみからなる生活、言語行為論でいう「発話内行為」の一切ない生活というのは不可能ではないが、人間同士の内的な結びつきをもたらすものではない。「発話遂行行為」が言語生活の中心となることを彼は拒否する。
砕いて言えば、およそ言語を人を操り動員する意図や目的と結びつけることをベンヤミンは一貫して避け、嫌った。(『現代思想の冒険者たち』から115-116p)

2.2.2 「言語一般および人間の言語について」から
ベンヤミンが取るこの態度をより明確したのが、一九一六年の秋に書かれた「言語一般および人間の言語について」である。この論文は、「ミメーシス的・表現的(expresiv)言語理解」といわれる言語観がベンヤミンに本格的に定着した後の論文である。

ベンヤミンは「物の言語」と「人間の言語」が別々に存在し、「人間の言語」は何かを名づける点で物の言語と異なるとした。神から人間が作られた当初においては、人間の言語(→アダム・イブの言語)は固有名詞のみであり、名づけることのみを目的とし魔術性があるとした。しかし、アダム・イブが堕ちた後は、普通名詞が登場し、コミュニケーションの道具に成り下がったと考える。
タイトルからして、「言語一般」と「人間の言語」は別物のようだ。あるいは「言語一般」があって、「人間の言語」がそのなかに位置づけられているようだ。確かに、比喩的には「音楽の言語」とか「建築の言語」という言い方も可能だ。彼自身この比喩から出発している。そうした各種の言語と人間の言語は異なるが、なんらかのつながりがあると考えられているのだろう。結論的に言えば、音楽、建築、樹木、ランプ、なんでもいいが、ある存在の言語というのは、当該の存在の精神的本質が直接的に伝えられている媒体(Medium)であるという考えがなされている。つまり、どんな存在にもそれ固有の言語があって、自然の全体には最下層の存在者から人間を経て神に至るまで*1、こうしたそれぞれの本質の直接的伝達が溢れ、流れている。それは無限の魔術的な連関であると彼は言う。
無限というは、言語において伝達がなされるのであって、なんらかの外的なものに条件づけられたり、限定されていないという無―限定の意味である。「魔術的」というのは、森羅万象でも人間活動の所産でも、およそいっさいの事物の精神的本質が交流しあっているからである。それぞれ下位の存在は上位のそれへと「変容の連続体」を作っている。人間はただ、そうした個々の精神的伝達を受け取り、それを通じて自然の名前なきものに名前を賦与するのである。それぞれの言語において精神的本質を直接に伝達していながら、自らは名前をもたないものに名前を人間の言語がつけるのである。「名前なき者の名前への翻訳」とベンヤミンはこの過程を名付けている。この名をつける(benennen)ことが人間の言語の特性であって、他の言語一般にはそうした特性がない、というのである。名前において言語が直接に伝達される。逆に、精神的存在が絶対的な全体性における言語であるときにのみ、名前というものが存在する。つまり、人間以外の言語も含めた言語の精神的本質は、名前として表現され、名前の中にこそ人間の言語の本来のありようが、つまり自然を認識し、自然の言語を翻訳するというありようが発揮される。
つまり、神は自分の言語によってすべてのものを無から作った。「光あれと言えば,光ありき」である。ところが神は、人間だけは無からではなく、「土」から作り、言語の才(Gabe)を贈り与えたのである。それゆえ、神においては言語による認識と創造が一体であったが、無からの創造のできない人間は名前による認識能力を保持した。すべての存在者が人間によってその固有の名前を受けるということは、元来言語はすべて固有名詞からなっているはずである、ということである。普通名詞、つまり特殊性を一般性に包括する言語は知られていなかった。固有名詞は自然的存在物の有限の言語と神の無限の言語の境界にある。それゆえ楽園のアダムにおいていっさいの存在の精神的本質が交響しあう「魔術的共同性」が存在していた。神の言語と人間の言語も親縁関係にあった。
ところがアダムの堕罪とともに自体は一変する。それによって人間の単語は、名前をつける認識の言語ではなくなった。いわば無傷ではなくなり、普通名詞がはびこり、伝達機能という似非魔術を帯びることになる。蛇の約束する善悪の知識はただの「おしゃべり」をもたらすだけで、それに相応するのが伝達機能として実用に供される言語である。こうして言語は第一に情報伝達と行為を引き起こすための手段と化する。手段としての言語はベンヤミンが一番忌避するところである。ところが第二に、人間の罪によって固有の名前のもつ「永遠の純粋性」が傷ついたため、逆に裁きのことばの純粋性が立ち上がる。一瞬にして人間を焼き尽くす、裁く神の圧倒的な力が屹立してくる。そして第三に、人間の言語はこれによって、抽象機能が備わる。こうした言語の道具化、つまり「奴隷化」とともに、自然も人間の利用の対象として奴隷化される。自然の表情は暗くなり、言語を失った自然は沈黙の中で(後略)(『現代思想の冒険者たち』から117-119p)
*1 この考えの背後にはドイツ語圏に存在する「汎神論」という考え方がある。「汎神論」とは、自然を階層的に捉え、その階層の中でいかに下に存在するものであっても神の息吹が潜んでおり、人間に語りかけている。人間はそうした生命と響きあい、それを通じで自然の解放すなわち神の救済をしなくてはいけないという考え方である。
また、ベンヤミンは言語哲学の中心に類似性とミメーシスという概念を置いた。自然の模倣が人間にとって快楽であり、強制であったとベンヤミンは考える。現在でもそれは残っているとベンヤミンは考える。
子供が大人のまねをするだけでなく、ひき臼ごっこや鉄道(機関車)ごっこをすることからも分かるとおり、まねと模倣の能力は人間の基本的能力であり、またその大部分は本当は無意識である。古人が星々の関係に動物その他の姿を、つまり類似性を読み取って星座としたのも、基本的にはこの模倣の力である。同じく言語も動物の叫びと同じく、知覚世界への分節化されない模倣、つまり擬声音という類似性をひとつの起源にしている。つまり、発音という表現的(expresiv)な要素と類似性を生むというミメーシス的能力の結合が擬声音である。自然界のいっさいと人間とはこうした模倣と表現性の関係にある。模倣とは―蝶々狩りを思い出せば分かるとおり―自然への同化である。それは快感でもあるが、同時に、「まねをせざるを得ない、かつての強烈な強制」に由来している。つまり人間は生きていくためには自然に自己を合わせざるを得なかった。生きていくためには、星座の中に人間界との類似性を作り出さねば成らなかった。
だが、こうした原始の、あるいは太古の能力は文明の進展ともに次第に姿を消してしまった。我々からは模倣という野生が失われている。とはいえ、この模倣のエネルギーが消失したわけではない。そうではなく、今は姿を見せない「非感覚的な類似性」としてのシュリフト(エクリチュール)と言語のなかに、しみこんでいるとベンヤミンは議論する―ちょうど擬声音のエネルギーが高度に文節化された言語のなかにしみこんでいるように。例えば、ある言語のなかにおける一つの単語は別の言語における単語と較べるとまったく類似性は存在しないが、それぞれの単語はそれが名指すものの回りに集まって類似性を見せている―バラとローズはまったく音が違うがそれによって名指されているものは類似している、というのであろう。ベンヤミンはシフィニアンとシフィニエ*4の関係の恣意性というソシュール以来のテーゼは知っていたが、興味を示さない。まただいぶ後の『言語社会学の問題』(1935年)でもコミュニケーションの手段、伝達、送り手、受けてといった記号主義思考は、言語活動に関する「ブルジョア的」見解として一蹴している。
(中略)つまり、類似性を読み取るというのは、自然の交響を人間の言葉に翻訳するということでもあったが、同時にそれは直接には見えないもの、非感覚的なものを読み取ることでもある。占い師が可視的なものから非可視的な未来の運命を読み取るように。同時にこの読み取る能力、つまりミメーシスの能力は〈瞬間〉と結びついているとベンヤミンは考える。星の作る形がある特定の時間と結びついているように、占い師がある特定の集中した瞬間に未来を読めるように、テクストを読むときには非感覚的な類似性を瞬時に読み取らなければいけない(123-125p)
また、ベンヤミンの思想の特徴として述べておくべきこととして、現象の背後に本質があるという思想をしない点が挙げられる。物事の意味はその配列によって決定されるというように考えたのである。
ここで今一つ重要なのは、現象の背後に本質があってそれを読み取るという発想はいかなる意味でもベンヤミンにはないことである。この点で彼はゲーテの最良の弟子であった―非感性性の強調を別にすればだが。マルクスはまだ資本主義社会の表の諸現象の背後にそれを動かしている本質的構造なるものを見ようとした。ベンヤミンがマルクスの理解に苦労したのはそのためである。むしろ、筆跡学の考え、―ロールシャッハ・テストを連想してもいいだろう―じっと見つめていると別の形態が、筆者の性格を見せる別の形態が浮かび上がってくるという考えに近い。あるいは、これも後に述べるが、モーゼ五書の『トーラー』は我々が分かる語彙と文法で書かれているかのように見えるのは偶然であって、じっと見つめ、配列を変えることによって、あるいは数文字ずつずらして読むことによって(「かねおくれたのむ」が「金をくれた、飲む」にも「金送れ、頼む」にもなる)、まったく違ったテクストになるのではないかという発想に近い。ベンヤミンが後によく使うコンステラツィオーン(星座、配列、組み合わせ)もこのような観点から見る必要がある。嘆き悲しむ自然も、我々は、その背後に本質を見るのではなく、その配列ないし組み合わせが変わる必要があるのだ。ずらしてみれば、違ったものが見えてくるはずである。(『現代思想の冒険者たち』から126-127p)

2.2.3 「翻訳者の使命」から
そして、『翻訳者の使命』(『翻訳者の課題』とも訳される場合がある)についての説明を抜粋する。ここでベンヤミンは翻訳について独立した芸術作品であるという見方を提示し、
一般的には翻訳とは、原作の意味をできるだけ忠実に伝達する仕事と考えられている。そのためには、いわゆる逐語訳でどうしても足りないところがあれば、多少とも母国語の自由を駆使した言い換えやパラフレーズが許され、そうした逐語訳と意訳の、つまりベンヤミンの言葉を使えば、「忠実」と「自由」の微妙なバランスを使いこなせる人こそ翻訳の名人となっていよう。あるいは解釈学の翻訳理論であれば、原文が多義的で難解であるときには、訳者がどれか一つの解釈に決めてそれにあわせて訳すべきであって、さもないととてつもないものができあがるし、それは原作の意に沿わないことも考えられている。この論理はガダマーがずっと後に『真理と方法』(1960年)で展開している。
ベンヤミンは予想されるこうした考えに真っ向から反対する―もちろん、テクストが伝達のために書かれたものではない場合に限定されるが。彼は、受容美学とはまったく異なった、芸術の絶対的自存性という前提から、翻訳が独立的存在であることを、そしてそれは作品の翻訳における〈死後の生Nachleben〉であり、作品の一側面の自己展開であることを、つまり、結果として逆説的にも受容美学にも影響を与えた考え方を展開する。
言語論関係の論文と同じく、核心にあるのは第一には、言語は行動のための伝達の手段では本来はない、というベンヤミンの強烈な信念であり、第二には、先の諸論文では森羅万象の諸言語間の類似性が強調されていたのに対して、人間における多様な諸言語間の親縁性である。そして第三には、芸術作品(ここでは文学)の自立的存在の客観性である。さらには四番目として、今まではそれほど大きな要素でなかった、あるいはどちらかというとうまく噛み合っていなかった時間性の問題が大きく登場する。(『現代思想の冒険者たち』から167-168p)
ベンヤミンは、言語間の翻訳が可能である理由を、「いっさいの言語はそれぞれが言おうとしていることにおいて親縁だから」と考える。これが「諸言語間の親縁性」である。そうした個別言語の総体として「純粋言語」なるものをベンヤミンは想定する。純粋言語とはなにをも志向せず・表現せず、表現を持たない創造的な語として、一切の言語においてめざされているものである。この言語の前では、あらゆる伝達・意味・志向は消滅してしまう。そして、諸言語は相補的にこの純粋言語を目指しており、それにもっとも適切で整合がとれているのが翻訳だという。その理由として「翻訳された言葉・文章が客観的・自立的な存在であること」
芸術の自立的存在の客観性とは、以下の通りの意味である。つまり、芸術作品というのは、絶対的に客観的な存在で、公衆のために、つまり受容のために存在しているのではないということである。その上で、「芸術は一つの形式である」という。翻訳も読者のためにあるのではなく、ちょうど芸術作品がそれぞれ形式として相互に非連続的に接しているように、またもろもろの言語がそれぞれ内的な全体性をなしながら、相互に非連続的につながりながら存在しているのと同じように、翻訳テクストもまた、原作と離れて非連続的に自立的に存在していると考える。同時に、ベンヤミンは翻訳可能性が原作のなかに内包されていることを忘れてはならないと強調する。作品の核を批評が燃焼によって救出するように、作品の形式を解体しつつもその〈傾向〉を別の言語に救出し、「次の生活」を、いわば作品の死を越えて死後の生を与える作業が翻訳なのである。
そして「時間性」とは以下のことを指す。翻訳する側の言語が歴史とともに変化していく以上、常に新たな・常に最終的な、作品の死後の生が作られなければいけない。それぞれのバージョンは原作の特定の側面を、独自の存在へと救出しているのである。こうして、時間性が大きな契機として登場する。純粋言語への「聖なる成長」の過程で翻訳が「燃え上がる」のは、「一時的で暫定的な解決でない、瞬間的で最終的な解決は、人間性には拒まれている」からである。そうであるからこそ時間性が重要なのである。
以上の「2 ベンヤミンについて」は、『現代思想の冒険者たち 第09巻 ベンヤミン―破壊・収集・記憶』、三島健一著、講談社、1998年出版 より抜粋した。

2015-01-23 16:50 : 『都市のリアル』(14年度学部ゼミ) : コメント : 0 :
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