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終章Ⅱ 《都市的なるもの》の救出 ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む(終章Ⅱについて)

終章Ⅱ 《都市的なるもの》の救出 ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む(終章Ⅱについて)

4 終章Ⅱについて
4.1 今回のテーマ
4.2 ルフェーヴルと《都市的なるもの》
4.2.1 ルフェーヴルとベンヤミン
4.2.2 《都市的なるもの》
4.2.3 使用価値の領域
4.2.4 出会いと集まりの場
4.2.5 可能的かつ潜在的な対象
4.3 問い逃がされる残余
4.3.1 都市社会のスペクトル〈幽霊〉
4.3.2 都市論への「翻訳」
4.3.3 専門領域が問い逃す残余
4.4 ベンヤミンと翻訳
4.4.1 翻訳可能性
4.4.2 純粋言語
4.4.3 翻訳者の課題
4.5 都市論への「翻訳」
4.5.1 領域横断性との差異
4.5.2 《都市的なるもの》の救出
4.5.3 おわりに

4 終章Ⅱについて
終章Ⅱでは、ルフェーヴルの「転繹法」≒ベンヤミンの「翻訳」を用いた都市論の拡張という説明を行い、そこから、本書は局所的に存在している各学問分野の知見を翻訳することで、都市論を拡張する試みであったと説明する。

4.1 今回のテーマ
数々の専門領域の知見を都市論の知見に添加する試みについて説明を行うのが今回の章である。そのコンセプトを考えるために、都市論の定義、およびその添加の方法論について考える必要がある。そこで、都市論はルフェーヴルの《都市的なるもの》という概念を利用する。そして添加の方法論としてベンヤミンの「翻訳」を利用し説明を行う。
そこで考えたいのが、説明方法は色々あったがなんとなくベンヤミン・ルフェーヴルを用いたのか否か、ということである。当然答えは違うはずである。その理由として、都市論についてはさまざまな人間が理論を組み立てていることと、「翻訳」に近い概念は学問によらずともあるだろうし、学問の中でも「知見の転用(あるいは導入)」に近い概念はあるだろう。
それならば、まず「翻訳」とその概念が存在する言語哲学の射程について、あらかた理解をしたいと考えて、上にベンヤミンの言語哲学および「翻訳」について記載した。アレントから「文の人(homme de letter)」と呼ばれ、文筆家として知られるベンヤミンの思想は難解であり広大であるので、翻訳に関係しない分野については述べることを避けた。ただ、ベンヤミンの思想を見る限りわかるのは、「近代の否定」という共通の意識である。(それはある意味で、彼が幼いころに見たギムナジウムの教養主義的で頑固な教師たちの姿の否定ではないだろうか。)それを手がかりに、ベンヤミンの思想についてある程度イメージを膨らませた上で、「翻訳」を利用する意義を考えると、「都市論を脱構築・再構築する上で、ベンヤミンの問題関心こそが最も適切だったから」という答えが出てくる。(そうでもなければ、あんなに難しいテクストを書き上げる人の概念を使うことなどないのでは。)

4.2 ルフェーヴルと《都市的なるもの》
4.2.1 ルフェーヴルとベンヤミン
現在都市を俯瞰的に論じることが空回りをしている。(=ひとつの全体的システムとして論じることができない)
→どうすれば現実味を帯びさせながら都市について論じることができるか。
そこで、ルフェーヴルの《都市的なるもの》という考えを用いる。
《都市的なるもの》=①60年代に提唱されたもので、古い
            ②日常生活に商品化の論理・国家の管理が進んでいる現状の批判
           ⇔現在は生活世界の均一化より荒廃の方が問題。
しかし、それでもなおルフェーヴルの考えを用いる価値はある。
→排除・分断・貧困のうちにこそ、可能なる《都市的なるもの》の萌芽があると考える。(マルクスの問題関心に近い?)
そのために、都市を全体のシステムとみなす視点を捨てる。
→都市的現実のcritiqueな局面から出発して、限界的な生の営みのうちに見出される《都市的なるもの》をつなぎあわせる(ベンヤミン言うところの「星座」?)
 →これに関して、ベンヤミンの「翻訳」という概念が用いるのが有効。
これによって都市を語る(=都市を一つのシステムとみなす観点から語る)、のではなく都市から語る(=都市に生きる人々の日常を抜き出しそれをつなぎ合わせるという観点から語る) 
 
4.2.2 《都市的なるもの》
《都市的なるもの》の特徴について述べる前に・・・
→ルフェーヴルが都市を「現実態」と「可能態」の二重の層として捉えていること。(ベンヤミンがあれほど批判した現象⇔本質の考え方?)
現実態=「現存的直接的な現実であり、実践的=感覚的で建築的な所与である都市(la ville)」(地図的な都市?)
可能態=「思惟によって構想し、構築し、あるいは再構築すべき諸関係から組み立てられた社会的現実である都市(l’urban)」(人に想像されるものとしての都市?)
→後者が《都市的なるもの》である。
現実態と可能態を二重視し、来るべき都市社会のあり方を構想する。
→このように(議論・認識・構想が)可能な対象を捉える論法をルフェーヴルは転繹法(transduction)と呼ぶ。
転繹法=眼前の現実のもののうち可能的なものを見出し、日常生活のなかに隠れている未来の兆候を発見すること。そうして、その可能なものを一つの対象性として構築し反省すること。
それで、《都市的なるもの》という概念についてルフェーヴルはどのように定義を、あるいは想定をしているのか
1. 使用価値が(交換価値より)優位となる領域(=場所?)
2. 自由な享受の場所(何を?)
3. 時間と空間が我有化、つまり自分のやり方で使いこなすことができる領域(=場所?)
4. 人々が作り出す作品
5. 創発的な出会いと集まりの場

4.2.3 使用価値の領域
使用価値=一対一の関係において、生じる価値が使用価値(?)
交換価値=均質な商品としての価値
経済的な論理・交換価値の領域の拡大に、ルフェーヴルは《都市的なるもの》の危機を感じる。(ハーバーマスいうところの、「システムによる生活世界の支配」に近い?)
鉄・紙などのような有用物は、どれも、二重の観点から、質および量の観点から考察されなければならない。(中略)あるものの有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存し得ない。(注:たとえば、鉄・銅は食料品扱いすることができないという話。あと、「食用可能」という属性をむりやり鉄・銅に付与しようと思っても、できない。)それゆえ、鉄・小麦・ダイアモンドなどのような商品体そのものが、使用価値または財である。(中略)交換価値は、さしあたり、一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち比率として現れる。(『資本論 1』、新日本出版、60-62p)

4.2.4 出会いと集まりの場
同じ目線をルフェーヴルは都市計画的な発想にも向ける。
→空間的要素を目的―手段図式の基に配置することは、空間それ自体が独立して価値を持つと思い込む空間フェティシズムである。
 →空間を人々の実践・意味づけから切り離して、商品として生産・交換するという視点はそこに住み込むユーザーの目線を切り落としている。
⇔都市は人々が自ら集合的に作り上げる「作品」でなければいけない。都市はそれ自体が目的となる自由な享受の場所でなければいけない。国家・資本などの統制がかかるような場面では裏をかきながら我有化される場所でなければいけない。
 →外的な強制や統御から解放され、複数の要素がぶつかりあい、何が起きるか分からない創発的な渦が生起するところに、ルフェーヴルは《都市的なるもの》を見出す。

4.2.5 可能的かつ潜在的な対象
《都市的なるもの》は可能的かつ潜在的な存在。それ自体を一つの全体性として引き出そうとする試みは失敗に終わる。
→まっすぐそこに向かいそれだけを取り出そうとするとするりと手から落ちてしまうもの。
 →目指すべきは、1.《都市的なるもの》が顔をのぞかせている、都市的現実のcritiqueな場面をたどること
            2.その場面の分析と記述の連鎖から、《都市的なるもの》の様相をあばくこと

4.3 問い逃がされる残余
4.3.1 都市社会のスペクトル〈幽霊〉
日常生活がばらばらに破断されているところでは、《都市的なるもの》の諸要素は「分解されて死んだ状態」で横たわっている。(例:非正規労働者・高齢者)
→ばらばらに分解されたその諸要素を〈幽霊〉とルフェーヴルは呼ぶ。
⇔そのような欠如と貧困にこそ創発性が隠れている。
 →日常生活が危機に晒されるときに、創発的な結びつき・開かれが存在する。
→限界的位相に存在する《都市的なるもの》を救い上げなくてはいけない。
では、どのように都市的現実にアプローチするべきか。個別の記述・分析をどう結びつければ《都市的なるもの》をすくいだせるのか
    →ベンヤミンの「翻訳」を補助線として用いる

4.3.2 都市論への「翻訳」
本書では「つなぐ」ことの意義を「翻訳」から捉え返そうとしている。
→なぜ「翻訳」なのか
 ・・・都市はもう局所からしか語りえない。その語りの拠点となるのは都市的現実のcritiqueな位相である。
   ゆらぐ位相をつなぐ=各種の専門分野の知見を都市論へ翻訳する試み
各種の分野にはそれぞれの方法論がある
 →その方法論では見落とす残余がある。ルフェーヴルはこの残余にこそ本質があると指摘する

4.3.3 専門領域が問い逃す残余
この残余が翻訳の可能性を残す。
→専門領域の知見から抜け落ちることろに《都市的なるもの》が潜んでいると考えられる
 →局所的な生にこそ独自の都市的現実を作り上げている
専門分野の知見の中で、潜在的な残余として《都市的なるもの》は存在し続ける
→本書はこれを拾い上げていた
置き換えの作業と残余としての《都市的なるもの》の関係、および「翻訳」の作業に関して考えるためにベンヤミンの「翻訳」について考える。

4.4 ベンヤミンと翻訳
4.4.1 翻訳可能性
「翻訳者の使命」(一九二一年)で展開された翻訳論
マニュアルなどの翻訳→意味内容を過不足なく伝達できればいい
文学作品→ストーリーや情景をそのまま翻訳すればいい、というわけではない。
・・・言葉の向こう側・個々の表現にこそ表現したいものがあるため。
→これらの芸術の本質的な部分を移し替えられないようでは芸術ではない
ベンヤミンはそこで、原作の持つ「翻訳可能性」について言及する。
翻訳可能性=原作では汲み取りきれないものを、翻訳によって引き出せる可能性のこと。
・・・翻訳可能性を持つ作品を訳そうとする場合、機械的な翻訳は無意味。
→文学作品を翻訳する場合は、自分が新たに創作するようにしなければいけない。
  むしろ、「とらえがたいもの」が翻訳者の創作を誘発しているとも考えられる

4.4.2 純粋言語
純粋言語=諸言語が互いに補足しながら同一のものを志向しているその収束点の先にあるもの
→バベルの塔の崩壊以前に人間が享受していたのが純粋言語である。(ベンヤミンの神学的発想)

4.4.3 翻訳者の課題
すべての言語は純粋言語の萌芽を有している。
→翻訳者がなすべきことは、翻訳を通じて純粋言語を救出すること。
=翻訳の際にすらすら読めてしまうような場合は、何かが消されてしまっている。翻訳がギクシャクしているときにこそ純粋言語を志向していることになる。
 →翻訳の際に、いわば、不自然な言語を無理やり当てはめることによって可能性を内部から広げる事ができる。そうして慣れ親しんだ言語習慣に対して批判的になること。そのときに翻訳は最高度の段階に価値を高めることができる。

4.5 都市論への「翻訳」
4.5.1 領域横断性との差異
「翻訳」に基づく、各種分野の知見を都市論へ導入する試み≠学際的アプローチ・学術横断性
理由:学際的アプローチは、それぞれの分野の知見を「組み合わせて使う」ことだから
→この考えは「翻訳」の考え方からすると甘い。個別のぼんやりとした認識をぼんやりとつなげるだけの結果になる可能性がある。
→分野の知見の限定性は維持されながら別の分野に導入することが重要。「余剰」が重要。

4.5.2 《都市的なるもの》の救出
専門領域の知見を翻訳し、都市論を別様に組み替えることが重要なのである。別分野の知見を都市論のものの見方で理解をすることとは異なる。
→翻訳により、都市論を無理やり内側から広げる作業が必要。都市論を別の○○論に化けさせる。
専門分野の知見が都市での生の現実を描くときに、《都市的なるもの》が各々に固有な形で表現されているといえる。≒ベンヤミンの翻訳で言うところの、「とらえがたいもの」
 →原作固有の形式ではそれは読み取れない。翻訳して引き出すに事により発見できる。それと同様に、余剰として残される《都市的なるもの》を十全に引き出すことが重要

4.5.3 おわりに
転繹法=都市を可能態と現実態の二重の層と捉え、眼前の現実的なものから可能なものを探る論法
専門領域の知見を都市論へ翻訳する作業=実現されてない可能態としての都市・《都市的なるもの》を翻訳を通じて引き出すこと
→翻訳を行うことにより、転繹をしていた!
《都市的なるもの》=なんにでも可能であり、潜在的で、目の前にわかりやすく見せることはできない。
個別的な記述・分析のなかでそのつど指し示されるものでしかない。
都市論の考えを多方面に開き、その方向性を力強く遂行できるかで、現在の都市論が落ち込んでいる閉塞状況を打ち破れるかどうかが決まる。

2015-01-21 16:55 : 『都市のリアル』(14年度学部ゼミ) : コメント : 0 :
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