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終章Ⅱ 《都市的なるもの》の救出 ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む(論点について)

終章Ⅱ 《都市的なるもの》の救出 ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む(論点について)

5 論点について
5.1 今まであった論点について振り返り
5.2 終章Ⅱについて
5.3 今回の議論の目的設定
5.4 論点1
5.5 論点2


注記:この章に関しては、現在ブログ掲載の作業中で、未完成です。

5 論点について
以上のメタ都市論とも言うべき終章Ⅱを受けて、どのような議論を行うべきかについて考えていきたい。そのためのステップとして1.今までの議論について考える、2.終章Ⅱについて考える、3.議論の目的を設定するという三段階を設定する。第一段階の今までの議論について考える段階では、①質問の設定の傾向について②議論の進み方の傾向について考える。それを行うことにより、今まで行ってきた議論の特徴・いい点・わるい点について理解を深める。次いで第二段階では、終章Ⅱの議論点、その意図することについて考え、それをどのように議論へ昇華するか、できるか、そしてするべきかについて考えていきたい。そして最後の第三段階では、議論の目標を設定する。どのような議論を行うことを目標とするべきかについて考え、それに準拠しながら、論点を設定する準備をする。

5.1 今まであった論点について振り返り
今まで行った論点について振り返ると、おおよそ大きな分類が四つできる。ただし、四つの分類は排反でない。
一つ目がコミュニティ系の論点、二つ目が非体験具体例系の論点、三つ目が実体験系の論点、四つ目が提案系の論点である。このうち、最も多いのが四つ目の提案系の論点であり、いままで12章見てきたうち8回提案系の論点が含まれていた。その次からコミュニティ系、実体験系、非体験具体例の順であり7回、6回、4回である。
提案系でも四つに分けられ、1,2,3章は「都市像」、4,7章は「労働」、9,11章は「コミュニティ」、5章が「家族」である。(このとき「コミュニティ」は地域共同体の意味。)ここから見ると、類型化はできるものの、偏りはしていない印象がある。
コミュニティ系は、1,6,9章を見てもらえれば分かるとおり「1回目と2回目の質問がセットでコミュニティの論点」で、「活発化」か「参加」の二つである。(コミュニティ、つまり地域共同体が弱体化しているという問題意識が全般としてあるため。)このとき、想定されるコミュニティは、「郊外住宅地」あるいは「第一次産業中心の地域」のコミュニティであったという印象を持っている。
実体験系は基本的に「あなたは~したことがあるか/あなたにとって~はなにか」という聞き方なので、まったく一緒といえば一緒であり、毎回テーマが異なるため毎回違うといえば毎回違う。しいて言えば、一回目の質問=導入である以外共通点はさほどない。二回目の質問もバラバラであるため、そこまでの関係性は見出せない。
非体験具体例も上と同様。導入であるため、そこまでの共通点や分類も指摘するところは無い。
そして、特殊なのが8章2回目論点の「今後どう生きていきたいか」の理想論(とその準備)、それと10章2回目の「今後同関わっていくと思うか」の先々の展望の二つである。
今までの印象だと、
1. 非体験具体例は2回目に繋げるのが難しいのに対して、実体験は2回目につなげやすい。
2. コミュニティについての話し合いは、「実体験に基づきながら」が基本となりがち
3. 「新しい~を構想する」は、その質問の構成上、現在の状況を批判することが前提となっているが、「△△という理論に基づけば上手くいく」ということが文章で示されることはないため、各自の持論になり、おおよその流れが班分けの時点でおおよそ見えてしまう。
4. 定義・イメージについて考え始めると止まる。メカニズムについて話し合うと、議論が進む。
という特徴があるように感じられる。そもそも、『都市のリアル』が理論/思想家の理論を理解するというコンセプトでないため、3に関しては「仕方が無い」「おかど違い」と言うほか無い。
しかし、終章Ⅰ・Ⅱのみ(特にⅡに関して)は思想についての理解であるため、今までのケースとは異なると言うべきである。
今まで私たちが論じてきたコミュニティは住宅地・農村漁村であるのに対し、ルフェーヴルの想定するコミュニティ(と言うべきかどうか怪しいが)は「都市におけるコミュニティ」である。郊外/ニュータウンが乱立する状況をルフェーヴルは「都市の網の目」と呼び、定住=共同体への参画を取りやめさせ、都市の中枢性からの疎外を進行させるものだとして批判の対象としたものである。
ルフェーヴルの議論に立つのであれば、「都市におけるコミュニティ、つまり労働=居住の場を一定の範囲内でともにする状況」について話し合うのが、終章Ⅱを受けての議論としてふさわしいのでないか、と考える。

5.2 終章Ⅱについて
終章Ⅱは幾分か難解であったし、理解にかかる(かけるべき?)労力も大きい(多かった)。
まず、ベンヤミンの「翻訳」に触れる。『都市のリアル』では文章を平易にかつ重要な部分を押さえていたので問題は無かった(ということがわかったのは、ベンヤミン解説書を読んだおかげなのだが)。
この章の難しさはベンヤミンでなく、むしろルフェーヴルにあったのではないかと思う。終章Ⅱのコンセプトが「1.行き詰まった都市論をルフェーヴルの概念で再構築し、2.その再構築の概念をベンヤミンで説明した後、3.そのベンヤミンの概念とルフェーヴルの方法論の概念が似ている」という話の流れであったため、1→2→3→1→・・・と本を読むのにどうどうめぐりをしてしまったことが挙げられる。
《都市的なるもの》と転繹法のつながりはいったいなんなのか。しかも、1の概念を作り上げるのに使った方法論3と、1で取り上げた問題を解決するための道筋・方法論2が類似しているという点に何のつながりがあるのかということを考えて段々とこんがらがっていってしまった。
そして、《都市的なるもの》と都市の違いがいまいち掴めない、そして転繹法の言わんとするところも、いったい何なのかよくわからない。そもそも、ルフェーヴルの問題意識や概念・思想構成がわからないので、ルフェーヴルを用いることでどのような「都市」をイメージしながら、この章は進んで言っているのか。思想家(というほど堅くない人でもいいかもしれないが)を取り上げられないと物の見方が備わらないのでよくないが、下手に思想家を取り上げられても理解するのにてこずるので、非常に難しい。
そして輪をかけて、というか学部生なので当たり前なのだが、「都市論の閉塞した現状」がよくわからないのである。それも気になるのだが、そこまでこのレジュメで取り上げることはできなかった。いったいなにからあたればいいのやら、閉塞していない状況とはいったいどんな状況で、閉塞している状況とはどんな状況なのか。どういう風にイメージしていいのやら。困った。
そして無いものねだりは続くんですが、「俯瞰的視点で語ることができない」という立脚点に立ってしまったら、都市論の意義とは一体どうなるのだろうかとも思ってしまった。「都市」をひとつのイメージとして持つことができなくなってしまったら、住宅街論だとか商店街論は残るかもしれないけど、「都市論」は消えるのかなあと思ったりした。俯瞰的視野から考えるというか、「○○は~という概念である」という風に設定することで批判なり実証なりされながら次の議論へ進むので、プロの研究者が「俯瞰的視野で語ることができない」、「一つの言葉で語ることができない」というのはよほど今の都市地理学は踊り場というか暗礁に乗り上げているのか、と思いました。
それと序章で「ホーリズム」批判であるとか、「つなぐ」、「ゆらぐ」という言葉遣いがイマイチピンとこなかったのですが、この章でなんとなく分かりました。
それで、「翻訳」に戻るのですが、この本を通じて色々議論する中で「何でこの人こんな発言するんだろうか」みたいなことが何度かありました。あの違和感を体験するがある意味で、自分へ同席者の考えを「翻訳」する営みとも思うこともできますし、もしそうであるのならこの本を通じて都市について、自分の育ったまちについて議論を重ねること自体が「翻訳」なのかなと思いました。

5.3 今回の議論の目的設定
せっかくなので、『大学生で学ぶ議論の技法』から、3、4pの「議論の目的とは何か」について抜粋したいと思います。
議論それ自体は、コミュニケーションの目的や目標ではない。それはむしろ言説のための手段、つまり言うべきことを展開するための方法である。ここでの「目的」とは、議論をとおして達成できるさまざまな目標のことを指している。
周知のように、議論のための議論をする人がいる。しかし、そうしたひとたちでさえも、議論そのものを超えた(ママ)目的をもっている。それは、敵対心や恨みや怒りを発散するためかもしれないし、あるいは、自慢したり、知識をひけらかしたり、ディスカッションを牛耳ったり、活気づけたりするためかもしれない。こうした論争好きなひとたちの議論はわたしたちには不毛に思えるが、かれらもたんに議論のためだけに議論しているわけではない。かれらは自己表現のために議論しているのだ。
議論はほぼすべてが自己表現である。話し手と聞き手のなかには自分の意見が言えただけで満足している人たちもいる。つまりそのひとたちは、ほかのひとたちに影響を与えることには関心がない。地方新聞に投稿したほかの読者の声について考えてみよう。そのなかには人の考え方に影響をあたえようとするひともいるが、大多数は単純に意見を述べるだけである。新聞の編集者はこのコーナーに「いいっぱなしSounding Off」といううまいタイトルをつけている。
すべての議論はある意味で自己表現である。なぜなら、その人自身の意見とそれをもつにいたった根拠ほど、その人を表現しているものは無いからである。違憲はその人格形成に大きな役割を果たしている。たとえば政治でいえば、保守派か自由主義か中庸派か、宗教でいえば、信心者か無神論者か懐疑論者か、などである。そのひとが考えていることこそがそのひと自身である。一般的に、人は自分の意見に確たる信念と思い入れをもっている。思い入れがひどくなると、自分の意見に疑問をもったり反対の意見に耳を傾けたりするのを忘れてしまうほどである。
言論の自由を尊重する社会では、自己表現として議論することはめずらしいことではない。しかもそれは、まったく自然発生的に生まれてくる。つまり、母語を憶えるように、形式とか過程をとくに意識することなく、たんにやってみることでみについてくる。それゆえに、本書では議論を特別なものとしてあつかうことはしない。
議論の大半は感情を表現するものであろうし、少なくとも出発点は自己表現であろう。しかし、自分の意見や反対意見を検討したり、相手に意見を変えさせたり、相反する意見の妥協点を見つけようとするとき、ひとは自己表現の枠を超えて議論の4つの目的のどれかをもつようになる。それは、「真理の探究」「納得させること」、「説得すること」、「交渉すること」である。
『大学で学ぶ議論の技法』、T・W・クルーシアス、C・E・チャンネル著、杉野俊子・中西千春・河野哲也訳、慶応義塾大学出版会
だそうです。この文章の後、結構色々細かく議論の仕方について書いてあるので、しっかり・ちゃんと・見通すことなく練習すればいい結果になるかもしれませんね。
とりあえず僕らは議論を目的として議論をしているのか、議論でない何か(上にある四つのうちのどれか)を目的として議論しているのか、あるいはできているのかについて、認識・判断することができればいいですね。
それで、今回の論点の目的は、「その空気が人を自由にするような」都市とはどのようなものか、明瞭なイメージを持つことができるようなることを目的とします。それが上手くいったら、ルフェーヴルの構想についてナットクしてもらえますし、そうすれば都市のリアルの構想もナットクできると思います。
それで、第一の質問は「都市で『自由』を味わった経験はあるか。あればその経験となぜ自由を感じたか理由つきで説明する。なければ、「まちなかでの思い出・経験」をキーワードに何かエピソードを話して、その時どのような感情になったか」という質問にします。
第二の質問は「先ほどの『なぜ自由(あるいはその他の印象)を覚えたか』という話を基にしながら、自由を味わえるまちの仕組み・メカニズムについて仮説を立ててみる」とします。
このとき、まちの範囲やどんなまちをイメージするかについては自由です。
そして、「感じる」・「味わえる」というのはその人その人によってことなりますが、立場や状況によって大きく異なります。そういった、「味わう人の立場」・「味わうときの状況」についてもひとつ議論・定義をしておいてもらえるとなおいいと思います。
極力ルフェーヴルの議論に準拠できるようにがんばってください!
資料は3章につけてあります!

5.4 論点1
「都市で『自由』を味わった経験はあるか。あればその経験となぜ自由を感じたか理由つきで説明する。なければ、「まちなかでの思い出・経験」をキーワードに何かエピソードを話して、その時どのような感情になったか」

5.5 論点2
「先ほどの『なぜ自由(あるいはその他の印象)を覚えたか』という話を基にしながら、自由を味わえるまちの仕組み・メカニズムについて仮説を立ててみる」

2015-01-20 16:57 : 『都市のリアル』(14年度学部ゼミ) : コメント : 0 :
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