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『さまよえる近代』 第5章(後半) レジュメ

『さまよえる近代』
第5章 近代性との戯れ――インド・クリケットの脱植民地化



(前半)
・「ハードな」文化形式としてのクリケット・・・それ自体が変容するというよりも、むしろ、そこへと社会化していく人々の方を容易に変容させる(p.165)
・人格ならび健康にまつわるヴィクトリア朝の理念を植民地へ伝える理想的な手段(p.170)
・インドとイギリスの社会階層の連結・交差→真正なるクリケット選手であり、かつ、真正なる「インド人」と感じる非エリートのインド人集団(p.176)
・宗教的共同体への所属が主たる原理となってインド人は団結し、クリケットを行っていた(p.179)→ナショナルに編成されたクリケットは、インドのナショナリズム的な政治家たちの想像の共同体がもたらした副産物というよりも、植民地企業の内的要求(p.182)

(後半)

現地語化とメディア

■多国語ラジオ放送
英語のクリケット用語、なかでも名詞体系を吸収し、統語パターンに組み込む

■テレビの登場・・・「クリケットはテレビに完全に符合したスポーツ」
・余暇の私生活化
スペクタクルの舞台としてのリビングルーム
 ← 競技場の群集・・・テレビ視聴者にスペクタクルの形跡を提供
・国民的熱情の深化
 ①海外のチームとスター選手を御しやすい存在へと縮減
 ②「視ること」→国際的なインド人クリケット選手へのこれまでにない大きな賞賛

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■大衆向け文書・・・ラジオ実況放送とテレビ視聴の双方を補強
 ・現地語と英語との架橋
 ・外国人選手の写真と氏名がインドの台本と統語論へ組み込まれる
 ・ラジオで耳にする一群の混声語が確たるものとされる
 ・指導的な資料・・・慣れ親しんだ言語形式でクリケットを経験することが可能に
→ 「イギリス性」から解き放たれたインド・クリケット

■言語と身体との結びつき
・クリケット用語の現地語による習得
    → 生きられた身体的能力への意識
・大量の情報や統計、知識・・・論争、意見交換のなかにとり込んでいく
    → クリケット用語を、言語使用ならびに言語経験の場としての身体へと結びつける
・クリケットは、名声や論争、スポーツ外の状況といった、さらに大きな世界へと引きずり込まれる
    → クリケットは、慣れ親しんだ言語領域のさらなる深層へと埋め込まれる

■『クリケット-クリケット』・・・現地読者がもつ「眼間の(interocular)」世界
 ①多彩な広告 ②低い紙質・画質
 ⇒ コスモポリタニズムをめぐる言語的または視覚的な印象を結びあわせた継ぎ目のない織布
   その結合子としてのクリケット

■文字化されたクリケット生活
 クリケット関連のラジオ放送やテレビ放送の需要に新たな深みをもたらす基盤となっている

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【小括】

■身体感覚的なメディア経験
・クリケット経験、クリケット・スペクタクルなどすべてが結託して、クリケットを現地語化するとともに、クリケットの主だった語彙や譬喩を、多くの若きインド人男性の身体的実践や身体と結びついた夢想のなかに埋め込む
・インド人は、クリケットが十二分に現地語化されてきたという意味において、文化的教養(リテラシー)を備えた視聴者
・クリケットの受容は、脱植民地化プロセスにあって、主体性と行為性(エージェンシー)をもたらす決定的に重要な装置となる

帝国の逆襲

脱植民地化の受容の局面・・・聴衆一般によるクリケットの文化的教養の習得
   ⇔ 生産の次元・・・企業家精神とスペクタクル:国家による後援と私企業の莫大な利潤

■クリケットの企業援助
  ①傑出したクリケット選手を駆け出しの頃に獲得し、
  ②調子を維持させるために厳しい練習を続けられるだけの自由を彼らに与え、
  ③引退後も正規のスタッフとして雇用する保障を与えた。
 <自社の好感度を高める―クリケットを下層階級、準田園地域にまで根付かせる>
■国民的情操の基盤
 企業の援助―州のメディア支援

■クリケットの商業化とスター選手の商品化
メタ商品としてのスター選手・・・選手自体が売り物であると同時に、他の商品の流通を刺激

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■国民的熱狂の対象へと変貌を遂げたクリケット
大衆のエンターテイメント、移動に関わるように → 至上命題としての勝利

■アジト・ワデカーの指導と「転換点」
 50年代中頃~60年代後半の不振期 → 1971年の勝利:「精神的新時代の幕開け」

■強豪・西インド諸島
 1983年の勝利・・・インドはクリケット界の世界的な強豪としての地位を得る

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■クリケットのヴィクトリア朝的倫理からの脱却
 攻撃的、スペクタクル、スポーツマン精神からの逸脱・・・クリケットの脱植民地化のためには必要だった

■クリケットの倫理的かつ美学的な世界
単一の世界からかけ離れ、多岐にわたる
★WSC(ワールド・シリーズ・クリケット)の創設
「ワン・デイ・クリケット」・・・一か八か、攻撃性、無鉄砲さ、強度の集中、試合展開の高速化
 ⇒ メディア・エンターテイメントや、選手に対する迅速な経済的恩恵の名の下に、ナショナルな忠誠を回避

■現在のインド・クリケットが表象する複雑な布置連関
<①ヴィクトリア朝的価値観―②ナショナルなものへの忠誠心>
                   ↑
 ③選手、プロモーターにとっては、これらの価値観は、
  才能、名声、金銭などのトランスナショナルなフローに従属するものにすぎない

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■新たなエートス:オーストラレーシア・カップ
・湾岸の小首長国シャルジャが主催
・1986年決勝でのパキスタンの最終回逆転勝利

■グローバルな居住地域(エクメーネ)の現出
・シャルジャ・カップ・・・ヴィクトリア朝の上流階級的なクリケットのコードへの最後の一撃
・シャルジャ以降は、「トロブリアンド・クリケット」

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【小括】

■英連邦という神話の腐食化
・スポーツ共同体に成り下がった英連邦
・大英帝国諸国民の友愛の希薄化・・・シンハラ族とタミル族、パキスタンとインド、etc.

擬装としての英連邦
「英連邦はもはや、黒や褐色の肌をした人びとを社会化し、帝国の公なるエチケットを習得させる装置などではなく、トランスナショナルなスペクタクルや商品化に供するようなナショナルな情操を動員する装置なのだ」

■事例:インドとパキスタンのクリケット外交
クリケットは、「かつては統一されていた二つの国民-国家の関係を特徴づけている敵意と友愛の奇妙な混成を再演する複雑なアリーナ」になっている

■両国間の緊張関係のシミュラークルの創造
クリケットの開催地としての湾岸諸国の存在感の高まり
→ インドとパキスタンの対抗関係が意図的に抑制あるいは強調される


結論――近代性の手段

■文化の生産を脱植民地化するもっとも重要な要因
 ★支援の土着化 
   ①土着の支援者 ②オーディエンス

■クリケットはなぜインド人の想像力をとらえて放さなかったのか?
「人間生活における遊び」
「国民と人類全体の強力な情操が動員されるときに編成されていくスポーツ」
「近代産業社会にあって余暇と快楽との関係を再調整するときに擬装されていくスポーツ」

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■クリケットの中心性――ジェンダー、国民、夢想、身体的興奮の結合
・二重に排除された女性の視線・・・男性のプレイを観戦/男性が他の男性のプレイを観戦している姿を観戦
・男性視聴者にとってクリケット観戦は、身体的習慣の水準で奥深くまで引き込まれてしまう活動
■「インド人の」経験として収斂される身体的快楽
 民族=国民性を詠う恋愛詩 ← 暴力性:階級、民族性、言語、宗教をめぐる分裂的な要求
 but ジェンダー、国民、夢想、興奮の間にある一群の連関が成り立つためには、
 歴史的偶発性の複雑な集合体(帝国、支援、メディア、商業、etc.)が必要

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【小括】

■クリケットはなぜこれほどまでに徹底的にインド化(脱ヴィクトリア朝化)されたのか?
「想像の共同体」の創出に加え、擬装された身体的技法が流用されることによって、そこに情熱と目的が付与される

■なぜクリケットなのか?
 「近代性の手段」と呼びうるものを用いて、インド社会の広範な集団に対して実験を行う、という経験が得られるから





【論点】

◆インド・クリケットにおいて、インド人女性の視線は二重に排除されている(p.203)とあるが、

①男性が支配的な他の活動において、女性が排除されていると思われる事例はクリケットの他に見られるだろうか?

②男女が逆の状況、つまり、男性が「二重に排除されている」と感じているような事例はあるのだろうか?

③今日のインドでは、クリケットのスペクタクルを提供するメディアに対して、女性でも比較的容易に接することができるはずなのに、筆者が「女性の視線が排除されている」と結論づけるのは何故だろうか?

2006-06-23 15:27 : 『さまよえる近代』(06前期・院ゼミ) : コメント : 0 :
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