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大学院ゼミテキストの感想

テキストの感想をコメントにお書き下さい。
1)テキスト全体に関する感想や意見
2)自分の論文(修論等)からみた感想
2006-07-27 12:01 : 『さまよえる近代』(06前期・院ゼミ) : コメント : 10 :
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ローカリティは関係的で社会的に生産されたコンテクスト的なものである。そして現存の空間から切り離されたところで生産が行われるので、一定の空間にとどまらない想像されたものであるといえる。これは人の動き・ものの動きが、輸送技術・電子媒体を介することに代表される通信技術によって高速化されたことに大きな影響を受けている。
アイデンティティにかかわる、自分の生まれた・育った場所への愛着というのは、ある一定で現存の土地に結びついたものだと考えていた。なのでローカリティという概念が宙に浮き、場所と心理的なものが乖離して別個に存在しているという考え方は新しい視座であった。

人が自分のナショナリティをおくのは、言語的な共通性があるところ、そして社会的に規定され人の動きがその中でとどまるところであるというが、現在では、特に後者は、規定しにくくなっている。戸籍があるから、生まれ育った土地だからということで自分の中でナショナリティを安易に定めることはできるが、厳密に追求していくと私のナショナリティも土地を離れ空間に浮遊してしまうかもしれない。

私は修論で河川とコミュニティの関係について考察しようと思っている。河川という自然的地勢的なものが行政界やそれで作られた住民の心理的な敷居を取り除き、コミュニティ作りのあり方のひとつとして存在しうるのではないかと考えているからである。ここでのローカリティはひとつの水系の流域の土地に結びついて存在していると考えられる。自然的地勢的なものから住民の愛着が乖離してしまっていては私の推測は崩れるが、現在の住民の行動は「近接」の範囲が拡大した大きなスケールで考えるべきものだということを頭に入れておきたいと思う。
2006-08-29 23:06 : つきやま URL : 編集
yoshy、ちゃんと読めますのでご安心を~。
2006-08-28 18:32 : あいざわ URL : 編集
学部時代は社会学を専攻していたので、グローバル化やグローカルといった言葉は触れた機会があったが、このような書を輪読するという機会はこれが初めてだった。その中で私は「統計」の章を担当したが、数学的な統計というよりは、インドにおける統計自体について焦点を当てて、「意図された統計」、つまり統計すらもそのローカリティによって変わっていく(特にインドではカーストによる影響が大きく関わってくる)というところが面白かった。政治の統計操作のように思えた。2つの同じような意味にも取れる単語が登場し、原文の単語を見ても意味は違わないように思えたものがあった。私がはっきりとこの文章を理解していなかったことが原因なのだろうが、あるいは先に指摘されている通り、訳出が微妙なのかもしれない。文化人類学的色が濃いと感じた。しかしながら、アイデンティティを差異と捉えた形での(あるいはその言説で以ての)議論という展開は、自身にとってあまりしっくり来なかった。たとえば近接が物理的でなく空間的なものであっても、そこからコンテクスト的なローカリティの生産あるいはコンテクスト自体の生産が為され得るということは文脈をたどって何となく理解はできても、実際に具体例をイメージできるほど頭がついていけないのが実際のところだった。また、近接に関しては、さらにコミュニケーションという言葉も関連して使えるのではないだろうか、とも思った。「さまよえる近代」は、近代の確たる軸のないグローバリゼーション化社会,均質化社会に対して警笛を鳴らしているものだと思えた。そしてこの書の場合、フィールドはインドに据えていても、グローバル化をただ一本の(経済の)「単一化」や「世界化」としては捉えず(アパデュライの出生などが関係するのかもしれないが)、ナショナリズムの言説においてクリケットの例を挙げるなどして、章立てをしていくつかの視点から見ていこうとするところが興味深かったし、そのあたりが長年この書が文化研究の必読書とされている所以であるのだろうとも思った。

自身の研究に関連することとして、「アイデンティティの構築」、「均質化と流動化」が挙げられるだろうと思った。ナショナリズムについてまでは自身の研究の中にこれまで考えてもなかったが、せっかくこういった書を手にしたのだから、少し織り込んでみても面白いかもしれない(どのように織り込むかというのはひとまず置いておいて)。「さまよえる近代」でも均質化、グローバリゼーション化について言及されているが、グローバリゼーション化はたいてい『世界化』と訳され、その通り情報化などに相まってさまざまなもの(情報など形のないものも含む)が世界中に流通、浸透していくことだと理解されるが、実際にはアメリカのネオリベラリズム(新自由主義)を推し進め、“世界化”しようとするものであるという見方もできる。いわゆるマクドナルド化、アメリカナイゼーションという言葉がそこから見出せ、マクドナルド化に関していえば、アメリカナイゼーションというよりもむしろそれを超えて、アメリカナイズされたものがいつの間にか世界中で無国籍化,均質化し、ネーション固有文化の希薄化をもたらしているとも言えるものである。これによって貧富の差や地域間格差を助長させる事となるという点では、市町村研究や地域のアイデンティティに関する問題とも少なからず関連のあることだろう。市町村問題や住民コミュニティを研究する際に、ただその問題やコミュニティ内だけを見るのではなく、そこに内在するcontextあるいは社会のcurrentを見ていかねばならないと改めて感じた。


(*遅くなって申し訳ありません。もし文字化けなどで日本から読めないようでしたら、教えていただけると助かります。)
2006-08-28 17:52 : yoshy URL : 編集
テキストについて

今まで、こんなにわかりにくい本を呼んだのは初めてです。完全にこの本を理解したとは言えません。

アパデュライによれば、近代国民ー国家は、その領土内に住む人々を、単一のネーション(国民)にへと還元することによって、ヒトと領土の同型性を担保してきた、グローバル化によって、こうした同型性が揺るさぶられることになると言いました。ここで私は中国について考えました。中国は多民族国家で、56民族があります、その内、漢民族が98%を占めております。それでも、違う民族の間に、紛争がなく、平和に暮らしています。そして、少数民族はさまざまな面で、優遇をうけています。少数民族自治区というのがあって、自治をしています。国家が揺るさぶられるというのは、中国には当てはまらないと思います。
 
自身の研究との関連について

私は中国都市部の住宅政策について研究しております。中国は建国以降、中国都市部において住宅は、一種の福祉として国による一元的投資と「単位」(中国の社会生活の中で人々は、自分が所属する工場、商店、学校、病院、研究所、文化団体、行政機関などを「単位」と呼ぶ)による建設・分配という体制下で、無償に近い低家賃で都市民に供給されました。これにより国家財政は圧迫され、70年代末に政府は、公有住宅の家賃引上げや新旧公有住宅の払下げ、「商品住宅」の供給などを通して、従来の国による一元的住宅建設投資体系から「中央・地方・単位・個人」の四者による建設投資体制への方針転換を内容とする住宅制度改革をおこないました。しかし、これらの施策も一定の成果は得たもののいずれも難航し、「単位」間の所有住宅の格差と建設する経済力の格差の存在は、現在に至って都市民の住宅格差を一層拡大させています。ここで、こうした現代中国の都市住宅問題の解決策を求めるための基礎的研究として、建国から現在に至る約半世紀間に政府が定めてきた住宅制度改革以前と改革以後とで全く異なる住宅供給政策のそれぞれの策定過程と実施・実現状況を明らかにすることで、建国以降の住宅供給政策に対する総合評価をおこなうことを目的とし、その考察に基づいて、今後の都市住宅供給施策の展開に対する提案を試みることが私の研究目的です。
私の研究をこの本に関係づけるのは、率直に言えば難しいです。でも、国家、民族、社会、文化の面では、たくさんの示唆を与えていただいたと思います。
2006-08-28 08:23 : Kim URL : 編集
Cultural Dimensions of Globalization

The first chapter builds on many currents in Social and Human sciences over the past two decades. Many of these symptoms are apparent in the remaining chapters. Building on this idea Mr. Appadurai and Ms Breckenridge has written an essay on “Public Modernity in India”. This collection of essay illustrates one strategy for engaging the global modern in a specific site. The essay on “Disjuncture and difference in global cultural economy” by Jemson is inspired by his work on relationship between postmodernism and late capitalism. Mr. Appadurai’s effort in this context is restructuring Marxist narrative. Ideas about ethnoscapes and cultural economy were developed in previous chapter. This concept was explored with British pedigree and is taking new forms in United States. Decolonization of Indian cricket is attributed to the activity of vernacularization. This has been aided by Marathi magazines like Shatkar, Chaukar etc. The author of the book presented “Life After Primordialism” in Harvard University. The author has been benefited by the questions and criticisms after the presentation. The author pays close attention to the work done by Fredrik Barth’s on ethnic groups and boundaries. This remains a classic study of social contexts ethnic processes according to the author. This chapter also presents a good understanding of modernity in Asia and Africa. The essays by Sociologists, anthropologists and political scientists discuss lot about modernization. Essays on “Weber in United States” represent a positive force about modernization, something which author does not do in this book. These essays have been influenced by Max Weber and subsequence efforts by Edward Shils and Talcott Parsons. The author did get remarks on the opinions expressed about primordialism. The primordialist view still has a wide audience. Theory of violence which is associated with ethnic clashes is expressed in the preliminary form and author relied on variety of sources and interpretations. There has been a mention of the work by Pritish Nandy and Veena Das on communal violence in South Asia, Das’s work on Sikh militants in India, essay by Donald Sutton on cannibalism among peasants in China, Liisa Malkki’s work on Hutu refugees in Tanzania. This gives insight as to how the violence has been localized and personalized, the glimpses in which most extreme forms of political violence can be linked to state level policies and politics. The author has done a serious coverage of ethnic violence. Argument to Author’s view about violence was made by Robert and Albert that all temporary violence can be attributed to the violent disciplinary techniques of the nation. Author opines that there is great deal of uncertainty in ethnic violence in the world. This uncertainty needs more exploration. Author says that there is no way to designate localities as actual social forms. Terms like place, site, and locale, all have their strengths and weaknesses. The term neighborhood has a virtue that it suggests sociality. The sense of neighborhood accommodates images such as circuit and border zone which is preferable to images as community, center-periphery. The present argument about locality is in part intended to open up a question of time in the production of locality. Henri Lefebvre saw a link between presuppositions of modern nation and the capitalist process of localization. Author’s view of localization matches with Henri’s observations.
2006-08-27 21:33 : チトラ URL : 編集
遅くなってしまって申し訳ありませんが、コメントを書きます。

1)テキストに関する感想
邦訳が出たのは比較的最近なのだが、原書の出版は1996年で、それも80年代末から90年代初頭にかけてアパデュライが学術雑誌等に寄せた論文を加筆修正して再録していることもあって、現代の我々から見れば、扱われているトピックや問題構成の仕方に若干「古さ」を感じてしまうことは否めない。が、グローバリゼーション関連の文化研究においては「現代の古典」とも呼べるような確固とした地位を築いており、その手の研究書では必ずといっていいほど言及される良書(とりわけ2章)であることも、また事実である。逆にいえば、その「古さ」も、アパデュライが既存の研究方法のなかに閉じこもって、形式的に整っていて読みやすいが、そのぶん新鮮味や野心の欠けた論文を惰性的に再生産する満足せず、そのときどきの「最新」の時事問題に対して学問的立場から果敢に挑戦してきたことの証左でもあるともとれる。彼は、日々刻々と変化する現代社会のなかで生じる様々な問題を旧来の学問的枠組みのなかに強引に押し込めてしまわず、彼が課題とした問題に応じた解の導き方をそのつど編み出してきた。そうした彼のこれまで軌跡を本書のなかに感じることができたようにおもう。勿論、内容的にも学ぶ点が多々あったが、研究者としての心構えというかスタイルというか、そういった面で参考になるべきことが大きかった。ついでに言えば、本書に上記のような「古さ」を帯びさせている責任の一旦は訳者にあって、どうせ邦訳を出すのならば、日本の読者と問題を同時代的に共有できるよう、もっと翻訳を急ぐべきであったと思う。そして、時間がかかったわりには、訳文があまりに拙い。

2)自身の研究との関連で
 私自身は1910年代に、サンフランシシコやバンクーバーといった北米の港湾都市で反英独立運動を展開していた「ガダル党 the Ghadar Party」というインド系ディアスポラの政治組織を対象とした歴史研究をしているので、本書を読むにあたって最も注目したのは、やはりアパデュライが「ディアスポラ」といった概念をどのように使用して、そこからどのようなことを見ようとしているのかという点にあった。もちろん、彼は基本的に現代世界の状況について考察しているので、およそ100前の事象を扱っている私の研究にそのまま援用することは難しいだろうが、参考にできる観点もあった。
 たとえば、アパデュライはいわゆる「故郷」から遠く離れた場所において「ディアスポラ共同体」が形成されていく現象を、移民と電子メディアが地球規模で移動し、両者のフローが「異郷」において偶発的に交差することから説明付けている。ヒトの移動についてのみ論じただけの多くの通俗的なディアスポラ研究とは異なり、アパデュライはB・アンダーソンがかの有名なナショナリズム研究でみせた知見を発展的に援用するかたちで、国民国家の枠を越えたメディアの広がりを移民の問題に接合し、単なる移民集団という旧来の見方では捉えられないディアスポラ集団の特殊性について論じることに成功しているようにおもわれる。私が考察しているガダル党の場合も、その組織と活動を支えたのは、彼らが定期的に発行していた新聞あるいはパンフレットの流通網であった。そうした出版物は北米地域やインド本国だけでなく、シンガポールやタイ、中国、日本と、インド人移民の暮らす地域ならどこにでも出回っていたといわれている。こうした出版物の流通と19世紀以降インド亜大陸から流出し、太平洋沿岸地域に点在していたインド人コミュニティ間のヒトの流れとが結びつき、ガダル党の政治運動を支えていたようにおもう。
 ただ、アパデュライには「ディアスポラ」をやや均質化する傾向がある点が若干気になった。ディアスポラとは、なんらかのかたちで「故郷」との紐帯を保持したまま「異郷」に暮らす人々のことである。しかし、たとえば同じ「インド」を故郷としているディアスポラのなかでも、各自が抱いている「インド」についてのイメージには、各人が所属するカーストや宗教あるいはジェンダーによって異なっているはずだし、またその人たちが今現在どこに居住しているかによってその生活スタイルや考えかたに差異が現れるはずである。ガダル党に参加していたインド系についていえば、彼らがインドをイギリスから独立させるべく奮闘していたわけであるが、国民会議派的な穏健路線の不十分さを批判し、時には過激な手段に訴えることも辞さなかった彼らのやり口は、インド本国では共感を得られず、支持層を増やすことに失敗してしまったという歴史がある。つまり、彼らはあまりに「アメリカ的」すぎたのであり。逆にいえば、彼らの眼からみれば、ガンディーやネルーの振る舞いは、依然として「イギリス的」であるように映っていたのだろう。アメリカに住むインド系ディアスポラは、「インド的」であると同程度に「アメリカ的」であるはずで、そのように2つの世界のあいだで引き裂かれた生を送っていることにこそ、独自の苦難と、そこから生まれる文化形態の力強さがあるはずだ。そうしたことに対する目配りが、アパデュライの記述のなかでは、十分にされていなかったように思われた。
2006-08-14 06:48 : カヤノキ URL : 編集
◆テキストについて

今回、最初のガイダンスに出席できず、すべりこみで参加した形になりました。
でもテキストを読む段階になって、「ミスったかな…」と感じたのが正直なところです。

ただでさえ社会学の知識が無く意味のわからない単語が多い上、筆者(訳者?)の個人言語が盛りだくさんだったため、さまよえる近代の中を延々さまよっている状態でした。

ただ、内容が理解できたとは言い難いですが、この本を読む意味はあったと思います。
これまで国という単位でしか世界を捉えていませんでしたが、世界はそんなにシンプルなものではなく、もっと流動的でファジーなものであるということに、今更ながら気付かせてもらいました。
もちろん国という枠組みは確固として現存していますが、アパデュライのように民族、そしてあらゆる形での資源の移動という観点から世界を俯瞰すると、今日のグローバル化した社会の中で、枠組みは希薄になり、その意味も変容してきているんだな、という感想を抱きました。

◆修論との関連について

残念ながら分野が全く違い、内容にかすっているかどうかさえ危ういところでした。

しいて言えるとすれば、この本に書かれた内容は、僕自身が物事について抱いていたイメージを少なからず変えさせるものもあったため、自分のイメージが正しいとは限らないことを再認識したくらいでしょうか。。。

全くの門外漢であったため、何を質問して良いかもなかなか分からない状態でしたが、
「この難しい本を読み切った」
ということにして、満足しておこうと思います。
澤先生、そして授業に出席されていた皆様、どうもありがとうございました。
2006-08-07 17:09 : しも URL : 編集
スイマセン今日書くって言ってたんですけど、明日か明後日には改めて書き込みます(;>_<;) やぁっと準備が整いましたよ。しかもここで関係ない事書いてスイマセン。書いたらこのコメントは削除しますゆえ。では皆さんお元気で。土産(話)お楽しみに。
2006-08-04 01:37 : yoshy URL : 編集
■テキスト全体に対する感想

 以前一度粗読みしましたが、今回改めて精読して、分からないことが増えたというのが正直な感想です。本書で扱われる事象の多くは、身近な類似の例を思いつくものばかりですし、本書が書かれた10年前よりも、現在のニュースで流れるトピックの方が、はるかにグローバル化が進展した状態になっているように思います。

 私の担当した吉見氏の解説の部分では、特にアパデュライが主張する「想像力」に関する議論を中心に据え、本質主義でも相対主義でもない「フラクタルな非決定論」を強調しています。

 例の5つのスケープが相互に影響し合いながら、ローカル・ナショナル・グローバルを行き来する想像力が構成されるわけですが、この議論を読みながら、私は頭の中でぼんやりとギデンズの構造化論と比べてみました。

 ギデンズは、主体と構造が再帰的に相互に影響しながら、近代社会が螺旋状に発展していくモデルを提起しています。アパデュライのat largeで不確定な議論と、単純に対比していいのかどうか分からないですが、興味深い違いだと思いました。

■自分の研究の立場から

 本書においては、想像力とローカリティが構成されていくプロセスについて、特に興味を覚えました。

私の研究上の関心は、意味や記憶を伴う日常生活の場としての「場所」が、どのように構築されていくのかという点です。特に、災害等で場所が大規模に再構築されるような状況や、災害から生活を守るために構築された場所を明らかにすることで、ローカルな地域社会の変容を捉えることを目指しています。

アパデュライの言う現象学的でコンテクスト的な「ローカリティ」は、複雑なスケープ間の相互作用の関係において生産・再生産される感情の構造だとされています。アパデュライは、空間的に近接せずに生産される「ローカリティ」や、「ローカリティ」を生産しない近接、メディアを通じた仮想的近接を通じたローカリティの瓦解などについて論じています。(第9章)

アパデュライが指摘した、そのようなローカリティの瓦解に近い状況が、実は現代の災害直後において急激に到来する傾向があるのではないか、と感じています。

メディアの影響力、5つのスケープ、想像力、近接性とローカリティなどの概念を意識しながら、自分のテーマを改めて見つめなおしてみたいと思います。

ところで自画自賛になりますが、後から振り返るにあたって、このブログ本当に便利ですね。滞りなくファイルを送っていただいた参加者のみなさま、ご協力ありがとうございます。
2006-08-03 20:54 : あいざわ URL : 編集
1)テキストに関する感想
最初、一章を担当が決まりレジュメをいざ作成するところとなって、「こりゃ、どえらいとこ担当してもた!」と嘆きましたが、前期でD・ハーヴェイやP・ブルデューの本を数冊読んでいたことが助けとなり、非常に楽しかったです。最後には、基本理解のための一章担当しておいてむしろ良かったなと思ったほどです。内容に関しては、統計が身体化され、自身に反映されていくというような内容は私の修士論文のテーマにも少なからず関係していて興味深かったです。

2)修論から見た感想
私の修士論文のテーマは、「女性のライフコースにおける住宅履歴の構造変化」です。
戦後日本の住宅システムは住宅所有を促進し、それを通じて社会のメインストリームを形成してきが、バブル経済の破綻をはじめとする一連の社会・経済変化が住宅所有の伝統的な基盤を掘り崩し、住まいの「梯子」の安定性は弱まった。女性のライフコースと住宅履歴に対する注目の意義は次の2点です。第1に、女性の暮らしの軌道は、就労実態・世帯形態・家族観などの変化などによって、いっそうの多様化の途上にある。女性のライフコースと住宅履歴に着目するのは、その多様化が住宅システムの再編を鮮明に映し出し、そして同時に、住宅システムの変容を促す触媒としての役割をはたすからです。第2に、旧来の住宅研究では「世帯」単位の分析が主流を占め、世帯代表者としての「男性稼ぎ主」の状況に焦点を合わせることが通例でした。これに対し、本研究では、女性という「個人」を分析単位とすることによって、住宅研究の領域に新しい視角を持ち込むことを意図しています。女性個人の住宅履歴を素材とし、「個人」と「世帯」の関係を再考することが、本研究での関心事です。
少し分かりずらい粗筋になってしまいましたが、以上のような修論とこの本と関係から感想を述べると、人間は必ず「選択」を行うとき自分ひとりで選択を決定したと考えていても、周囲の環境や自身の社会的背景、地域性といった想像力によってその「選択」は影響されます。また、その地域での統計においてメインストリームは、地域の想像力の一部として作用し、方向性を生んでいました。そういった考え方を住宅取得の分野にも活かせるのではないかと思いました。地方では、「住宅=持家」といった考え方が存在すると思われますし、さらには女性においてもそういう傾向がうかがえるかもしれません。都市部の人間は、住宅取得に関しては様々に多様化していますが、地方から出てきたものに関しては地方の想像力を持った者のディスポアラがみられるかもしれないな、とも思いました。しかし、データの分析をはじめてみないとわかりませんが、現在では住宅取得に関するメインストリームは広汎に崩れてしまっているため、そういう傾向が見られないかもしれません。そういった点からも修論に様々な可能性を感じさせてくれる本でした。
 長々と稚拙な文章を書いてしまい申し訳ありません。また最後になりましたが、澤先生をはじめ、澤ゼミの研究室皆さん、授業で一緒になった皆さん、この半年ありがとうございました
2006-07-31 19:59 : きた(◎_◎)やま URL : 編集
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